お知らせ

◆立川教会の定例集会の案内
【毎日曜日】
・教会学校(幼児・小学生対象):8:30-9:00
・ジュニア礼拝(中高生対象):9:15-9:45
・主日礼拝:10:30-11:30

【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
 現在、旧約聖書を学んでいます。

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◆日本基督教団立川教会 創立1951年2月11日 主任担任教師 保科けい子
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6月第5週の礼拝説教
■日 時:2024年6月30日(日)10:30~11:30聖霊降臨節第7主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:ヨハネによる福音書4章43節~54節(新約p171)
■説教題:「 主よ、おいでください 」 
■讃美歌:204「よろこびの日よ、ひかりの日よ、」474「 わが身の望みは 十字架の主にあり、」

ヨハネによる福音書は、主イエスがユダヤ人の祭りのたびにエルサレムに上ったこと、また、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間を行ったり来たりしておられることを語っています。他の三つの福音書では、主イエスの活動されたのは主にガリラヤであり、生涯の最後に一度だけエルサレムに上りそこで十字架に架けられたとなっていますから、この点にヨハネによる福音書の大きな特徴があるのです。本日の聖書箇所ヨハネによる福音書4章44節では、「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」と記されています。このことは、ヨハネによる福音書と同じような発言として語っているルカによる福音書、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と家族にまで広げて語っているマタイによる福音書とマルコによる福音書と、四つの福音書すべてに記されています。いずれも、主イエスご自身が神の言葉を語り伝える預言者であるということを明らかにしています。けれども、自分は故郷では敬われない、故郷の人々には受け入れられない、と語っておられたのです。そのお語りになった状況を見てみますと、ヨハネによる福音書だけは、他の福音書のように会堂の中ではなく、ガリラヤにお着きになったところで、ガリラヤの人たちに歓迎された中で語ったと記しているのです。そしてその理由も「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」と記しています。ガリラヤの人たちは、ガリラヤのカナでの婚礼で、主イエスが水をぶどう酒に変えるという最初のしるしをなさったことを見聞きしていたと思われます。(ヨハネによる福音書が語っている「しるし」とは、いわゆる奇跡のことです。)そのうえで、過越祭の行われているエルサレムでもしるしをなさったのですから、2章23節に「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」というような状況が生じていたのです。ですから、ガリラヤから祭りに行っていた人々は、エルサレムで見聞きしたようなしるしを自分たちの間でも行ってほしい、という期待を膨らませて、イエスを歓迎したのです。


46節には、「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。」とあります。最初の奇跡をなさったカナに行かれたことで、イエスが再び奇跡をなさるのではないかという人々の期待が、ますます高まったことでしょう。そのイエスのもとに、カファルナウムにいた王の役人が訪ねて来ました。その人の息子が病気で死にかかっていたのです。当時としては最高の治療を受けさせていたのでしょうが、どんな医者にももう見放されていたのだと思います。彼は奇跡を行うという主イエスの評判を聞いていたことでしょう。ですから、最後に一縷の望みを抱いて主イエスのもとを訪ね、「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ」のです。この父親の願いを聞いたイエスは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃいました。この言葉が、この話においてとても重要な意味を持っています。この言葉は、ガリラヤの人々がイエスを歓迎した理由をも厳しく指摘しています。つまり彼らは、しるしや不思議な業を見たのでイエスを信じた人々であり、ここでもまた、イエスがそのようなしるしや不思議な業をなさることを期待しているのです。このカファルナウムの役人もその一人です。彼は、自分の息子にもその不思議な業を行ってくれることを願ってイエスのもとに来たのです。彼にとって、今、最も大事なことは、イエスという男によってなされるしるしや不思議な業によって息子が癒されることです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」という主イエスの言葉は、そのような彼の思いを見抜いて語られています。しるしを見聞きしてイエスを信じた人々は、本当に主イエスを信じて敬っているのではない、彼らはむしろ、「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」頑なな人々なのだということをヨハネ福音書は語っているのです。そして、本日の箇所で記されている出来事の最初に記されている44節の「預言者は自分の故郷では敬われない。」という主イエスの言葉は、まさに、主イエスの故郷のガリラヤの人々の姿を描いています。「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」と記されているのですから、表面的には自分たちと同じ故郷を持つイエスを敬っているように見えます。しかし実際には、「さあ、あなたの小さな時からの様子や家族のことを知っている私たちの前で、しるしや不思議な業をやって見せなさい。そうすれば、あなたを信じてあげよう。」と冷ややかに構えているのです。この箇所を読むときに、私たちは自分自身の中にも、ガリラヤの人々と同じような主イエスに対する冷ややかな思いがあることを知らされるのではないでしょうか。

ところで、何度も繰り返しますが、主イエスは息子の癒しを願い求めた父親に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とお答えになりました。それは、その父親の願いを冷たく拒んでいる言葉のように感じられます。彼も最初は「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」者の一人だったのです。不思議な業をするという男がいるそうだから、何とかして家まで来てもらえれば息子は助かるかもしれない、と思ったのかもしれません。その彼は主イエスにそのように指摘されることによって、心の底から真剣に「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願える者になりました。そのような父親の思いの変化は主イエスに確かに通じ、その思いに、主イエスは応えて下さったのです。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と主イエスはお語りになりました。父親の願いは、息子が死なないうちに主イエスがカファルナウムに来て癒して下さることでした。しかし主イエスは、その彼の願い通りにするのではなくて、言葉のみをお与えになったのです。その言葉を聞いて、「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」のです。私は、主イエスのなさった本当のしるしと不思議な業とは、ここに記されている役人の姿勢の変化にこそ現れているではないかと思うのです。イエスという人物の噂を聞いて、半信半疑でやってきた一人の人が、主イエスに出会うことによって、真剣に主イエスを信じる者へと変えられたのです。私たちの信仰も、主イエスに出会い続けることによって、より深く、真実なものへと変えられていく、そこに、私たちの本当の望みがあるのではないかと思います。その帰り道で、役人は迎えに来た僕たちから息子の病気が癒されたという知らせを聞きました。息子の熱が下がり癒された時刻は、主イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃった、まさにその時刻だったことが分かったのです。このようにして、カファルナウムの役人の息子の癒しというしるしが行われました。

最後の54節には、「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」とあります。ヨハネによる福音書は、主イエスがなさった七つのしるし、つまり奇跡を語っています。その第一と第二は、ガリラヤのカナでなされました。第一は、結婚の祝宴において水をぶどう酒に変えたこと、第二がこの役人の息子の癒しです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃって、しるしを求める者たちの姿勢を批判的に見ておられた主イエスですが、結局、役人の主イエスに対する応答を深く受け止めて下さり、病人の癒しという不思議な業、すなわちしるしを行なって下さったのです。53節の後半にある「そして、彼もその家族もこぞって信じた。」というみ言葉を読むときに、私は使徒言行録の16章を思い出します。牢に捕らわれていたパウロとシラスと牢の看守との間に起こった出来事です。大地震が起こった後で、牢から逃げ出さなかったパウロとシラスを看守は外へ連れ出し、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」と尋ねます。それに対して二人は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と答えました。そして、「まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。」と続いています。同年代に記されたと思われるヨハネによる福音書と使徒言行録が語っている救いの出来事、そのことがまた、今の私たちにも語り継がれて出来事となっている不思議な恵みに感謝いたしましょう。

立川教会牧師  保科 けい子