お知らせ

◆立川教会の定例集会の案内
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【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
 現在、旧約聖書の「創世記」を学んでいます。

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9月第4週の礼拝説教
■日 時:2023年9月24日(日)10:30-11:30 聖霊降臨節第18主日
■説 教: 原口尚彰 先生
■説教題:「 思い悩みと信仰 」 
■聖 書 旧約:申命記8章2~10節(旧約p294)
     新約:マタイによる福音書6章25~34節(新約p10~11)
■讃美歌:57「 ガリラヤの風かおる丘で 」 369「 われら主にある ひとつの家族、」

今日の聖書の箇所は、イエスの山上の説教の中程に出て来ています。特に「空の鳥を見なさい」(マタイ6:26)、「野の花を見なさい」(6:28)という言葉は非常に有名で、クリスチャン画家の渡辺禎雄さんが画いた版画や、田中忠雄さんが画いた絵画を思い出す人も多いのではないかと思います。田中忠雄さんの絵に関しては、以前に神戸にある小磯記念美術館で回顧展があり、「空の鳥を見よ」と題した二点の原画を見たことがあります。また、以前に勤務していた東北学院大学の泉キャンパスの礼拝堂のステンドグラスにもこの言葉をイエスが人々に語る場面が描かれていました。その原画を描いたのも田中忠雄さんでした。

この一見易しいイエスの言葉は、良く考えて見ると実は案外難しいことを求めています。イエスの言葉に従って目に見える空の鳥や野の花に視線を向けることは簡単なのですが、その背後に見えない創造主なる神の配慮を読み取ることは、天地の創り主なる神への信仰がなければ、全く不可能です。この言葉の意味することを誰でも即座に理解できるわけではありません。山上の説教の言葉を聞いた聴衆は、ガリラヤの民衆やイエスの弟子たちでした。彼らは学校で学ぶ機会はなかったのですが、ユダヤ教の祭りや毎週行われるシナゴーグでの安息日礼拝を通して旧約聖書の言葉には親しんでいました。彼らは創世記の初めのところが語っているように、目に見えない神が言葉を通して世界を創ったのであり、目に見える世界はすべて被造物であることは良く分かっていました(創世記1:1-2:4)。空も海も大地もすべて神が言葉によって創ったのであり、その中に生きる植物も動物も人間もすべて被造物であることは説明する必要がない前提でした。今回の箇所が伝えるイエスの言葉は被造物である鳥や野の花に注意を向けていますが、それを通して見えざる神の配慮を読み取るように勧めています。つまり、目に見える物を見ながら、目に見えない神の配慮を心の目で読み取るように求めています。

今日の箇所は、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」という勧めで始まっています(マタイ6:25)。ここでのキーワードは「思い悩むな」という言葉で、31節や34節でも繰り返されることになります。人間の生活の維持にとって必要な食物や、衣服といった生活物資をどう確保しようかということだけが心を支配し、思い悩むようなことになってはならないとイエスは教えています。この言葉を聞いていたガリラヤの民衆の多くはとても貧しい人々でした。彼らにとって、「何を食べようかと思い悩まない」ということは、様々な食物の中から今日はどれを選んで食べようかといった贅沢な悩みではなく、文字通り、今日食べる物があるかどうか分からないという中でどうしようかと思い悩まないということでした。「何を着ようかと思い悩まない」ということは、沢山のドレスや上着を持っていて今日はどれを着ていこうかという選択に迷う問題ではなく、着ていた物がすり切れたけども替えがないといった状況でも、どうしようかと思い悩まないということでした。

 人間が生きていくためには、食物を摂取することも、衣類を身にまとうことも勿論必要です。「何を食べようかと思い悩まない」と言っても、飲まず食わずの状態でいることを勧めているのではありません。主イエスは少し前のところで、弟子たちに「あなた方はこう祈りなさい」と言って主の祈りを示していますが(マタイ6:9-13)、その中で「私たちに必要な糧を今日与えて下さい」(「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」)と祈るように勧めています(6:11)。「思い悩まない」とは、そのことを一切考えないのではなく、そのことに心が囚われ、乱れた状態にならないことを意味しています。また、「何を着ようかと思い悩まない」といっても、人間が自分の体の体温を適切に保って生活するためには衣類を身に着ける必要がありますし、適切な服を着ていることが社会生活の前提です。イエスが民衆に裸でいても構わないと言っているのでは勿論ありません。イエス自身もその弟子たちも、たとえ質素なものであっても衣服を身に着けていました。「何を着ようかと思い悩まない」とは、着ることは生活に必要なことであっても、衣類を確保することに過度に囚われて、心を乱すことがないようにということがその真意ではないでしょうか。

 しかし、人生に悩み事はつきものであり、「思い悩むな」と言われても、生活上のことであれこれと迷ってしまうのも人間の常ではないかと思います。ですから、現代の世界でも新聞には人生相談欄があり、学校や会社にはカウンセラーがいて、人々の様々な悩みを聞き相談に乗っています。イエスの言葉も、聴衆である民衆が、生活上のことで悩んでいることを前提にしています。信仰を持てば悩みの種が直ぐになくなる訳ではありませんが、そうした悩みを生み出す現実を受け入れつつ、それを乗り越える希望を得ることが、信仰を持つ意味ではないでしょうか。

イエスは民衆に対して、食べる物がない、着る物がないといった現状から一旦目を離して、空の鳥や野の花を見つめるように促しています。人間は日頃は働いて生活の糧を得ています。旧約聖書によれば、人類の始祖であるアダムの務めは、エデンの園を耕し、守ることでした(創世記2:15)。労働することが人間の本性に属することをこの物語は示しています。ユダヤ人たちが守らなければいけない基本的な戒律であるモーセの十戒の第4戒は、「安息日を聖としなさい」と命じていますが、その具体的内容は、六日の間働いて仕事をし、第七の日には仕事を休むということです(出エジプト20:8-10)。その根拠は、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれた」ことです(20:11)。つまり、安息日律法は、人が安息日に仕事を休むことだけでなく、週日を通して働くことも定めています。

イエスのもとに集まった民衆は、働かないでも済むような貴族階級ではなく、農民として、或いは漁民として、或いは商人として毎日仕事をして自分の糧を稼いでいた庶民階級の人々でした。この聴衆に対してイエスは、「種も播かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」空の鳥や、「働きもせず、紡ぎもしない」野の花に学ぶように勧めています(マタイ5:26, 28)。この言葉を聞いてガリラヤの民衆は恐らく驚いたのではないでしょうか。それと言うのも、旧約聖書は一貫して勤勉の美徳を説いており、イスラエルの民に対して一生懸命に働くことを勧めているからです。特に様々な生活訓を集めた箴言は、勤勉に働く者はその報いとして豊になり、怠ける者は貧しくなると繰り返し強調しています(箴言6:9-11; 10:4-5)。勤勉の徳を説く際の自然界のモデルが働き者の蟻や蜂であり、箴言の6章には次のような言葉があります。

「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食料を集める」(箴言6:6-8)。

同じような教訓は、ギリシアのイソップ物語に出て来る「蟻とキリギリスの話」にも見られます。こうした通俗道徳とは違って、イエスは働くことをしない空の鳥と野の花を観察してそこから学ぶように勧めています。それでは、イエスは私たちに仕事はしなくても良い、怠け者になりなさいと言っているのでしょうか?勿論そうではありません。鳥や花が仕事をしないのに生きて行けるのは何故かということについてよく考えて見るようにイエスは促しています。鳥は人間のように畑を耕し、種を播いて育て、収穫をすることはしないけども、元気に空を飛んで生活しています。鳥は木の実を啄んだり、虫を捕まえて食べる採集行為をしているのですが、それは文明世界に生きる人間が行っている農耕の働きとは質的に違うことであるとイエスは考えていたようです。では、労働ということをしない鳥が何故生きていくことが出来るのでしょうか?イエスによるとそれは「天の父は鳥を養って下さる」から(6:26)、つまり、創造主なる神が、造られたものである生物に配慮し、必要な糧を与えるからです。イエスは人々にそのことを、信仰の目を持って読み取るように勧めております。

野の草や花についても同様です。イエスが民衆を教えたガリラヤはイスラエルでは比較的雨が降る地域であり、草や木が生えていました。イエスが山上の説教を語った丘の上にも草が生え、一面の花が咲き誇っていたようで、その美しい風景を見つめるようにイエスは聴衆に促しています。野の花は働きもしないし、紡ぎもしません(マタイ6:28)。「働くこと」はここでは苦労して働く人間の営みを指し(マタ11:28; ルカ5:5; ヨハ4:6)、「紡ぐこと」は布や衣服を製作するために必要な糸を得るためになされる家の中での手仕事を指します。雑草は労働することを一切しないにも拘わらず、生命を維持し、成長し、花を咲かせ、実をつけます。それは一面では大地の生産力の現れですが(創1:11-13)、究極的には被造物である生物に必要なものを供給する、創造主の配慮の結果に他なりません(詩104:10-14を参照)。

 ここでイエスは、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾っていなかった」と宣言します(マタイ 6:29 )。ソロモン王は父ダビデの死後イスラエルの王位を継承してダビデ王朝二番目の王となった英明な人物です(列王記上1:1-2:46)。ソロモン時代のイスラエル王国の版図は広く、オリエントの大国にならって官僚組織と強い軍事力とを備え(4:1-6)、経済的にも繁栄し、最盛期に達しました(列王記上4:7-5:14; 10:14-29)。ソロモンの王国は古代にあって、人間が労働と技術によって築いた文明と富の上に君臨していたと言えます。しかし、イエスはこのソロモンが身にまとっていた栄華が(王上3:13)、野の草花の美しさに及ばないと言っています。これは聞く者を驚かせる非常に大胆な発言でありました。野生の草は湿潤な気候の日本では、逞しい生命力の象徴となりますが、乾燥した中近東の風土では、乾いた熱風が吹けばたちまちに枯れてしまう、はかないものの象徴とされます(イザ40:6-8; ヨブ8:12; 詩90:5-6; 103:15-16を参照)。イエスは今日生えていても、明日には枯れてしまい、抜かれて炉に投げ入れられるようなはかない草花でさえ、神がこのように装いを与えていることに注意を喚起します(マタイ6:30)。 神の創造の冠として神のかたちに創造された人間に対しては、尚更のこと天の父は配慮し、相応しい装いを与えるのではないだろうか?とイエスは説いています(マタイ7:11を参照)。

人が思い悩むことの背後には、しばしば創造主である天の父への信頼の不足が存在しているので、思い悩む者たちは「信仰が薄い者たち」という非難を受けることになります。マタイ福音書においてはしばしば恐れを抱いた弟子たちが、イエスによって「信仰が薄い者たち」と叱られています(マタイ8:26; 14:31; 16:8)。それではどうしたら、思い悩まずに済むのでしょうか?イエスはその結論として、「何よりもまず、神の国とその義を求めなさい」と言っています(6:33)。この言葉は、思い悩むなという勧め(マタ6:25, 31, 34)と表裏一体をなす勧めとなっています。「神の国とその義を求めること」が「思い悩まないこと」に何故先立つのでしょうか?このことは主の祈りにおいて、神についての三つの祈願が(6:9b-10)、人のことを求める三つの祈願(6:11-13)に先行していることにも並行しています。主の祈りの最初の三つの祈願は「御名を崇めさせたまえ」「御国を来たらせたまえ」と「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」であり、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈願は四番目に出て来ます。つまり、私たちが祈り求めるべきことの優先順位からすると神の国とその義が先に来ており、生活に必要な物資はその後に来ます。マタイ福音書の4章に記されている荒野の誘惑の出来事においてイエスが引用した「人はパンのみにて生きるのでなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」という申命記8:3の言葉も同様に、生きるために必要な食物に勝る価値を神の言葉への信仰に見出しています(マタ4:4)。

「何よりもまず、神の国とその義を求めること」は、弟子たちが働くことや生活物資を調達するために努力することを放棄し、怠け者になることではなく、迷うことなく天地の創り主なる神を信頼し、その配慮に委ねることを意味していました。私たちが毎日の生活において神の支配の到来を待ち望み、神の御心に適った歩みをすることこそ、「神の国とその義を求めること」に他なりません。さらに、「そうすればこれらすべてはあなた方に添えて与えられるであろう」 という言葉は、彼らに必要な生活物資がそれに伴って供給されることになることへの信頼を語っています。この言葉は直接には、ガリラヤの民衆やイエスの弟子たちに対して語られていますが、時代や場所を問わず神を信じる者すべてに対して与えられた言葉ではないかと思います。

今日の箇所の最後のところでイエスは、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自身が思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と語っています。この言葉の最後の部分は、「一日の苦労は一日にて足れり」という文語訳の言葉で覚えている方も多いと思います。この言葉は、毎日毎日心配の種はあるのだから、明日のことまで考えて取り越し苦労をする必要がないという一般的な教訓を述べているような印象を受けますが、そこには神への信仰ということが背後に存在しており、単なる格言ではありません。信仰は人が持つ信念や信条とは一見似ているようで異なっています。信仰は自分たちを超えた存在を信じるということが基本であるので、神の御心に適ったことを行うことを目指すと言っても最後は神に委ね、その成就を神に祈るということが常にあります。今朝、私たちは山上の説教の中にあるイエスの言葉を通して、思い悩みをどう乗り越えるのかということを考えてきたのですが、それは自ずと、神に祈ることへと導かれるのであります。

※本日の説教は、昨年12月より立川教会の主日礼拝に出席しておられる、原口尚彰(たかあき)先生が語ってくださいました。新約聖書神学者で、聖和大学助教授、東北学院大学教授、フェリス女学院大学教授などを歴任されました。現在は、日本聖書神学校講師、日本ルーテル神学校講師、農村伝道神学校講師をなさっています。

立川教会牧師  保科 けい子