◆立川教会の定例集会の案内
【毎日曜日】
・教会学校(幼児・小学生対象):8:30-9:00
・ジュニア礼拝(中高生対象):9:15-9:45
・主日礼拝:10:30-11:30
【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
しばらく、休会いたします。
【主日礼拝ライブ配信について】
※Facebookでの配信がフォロワーの数の関係で、困難になっています。
現在、他の配信方法について検討中です。
9月第3週の礼拝説教
■日 時:2026年9月20日(日)10:30~11:30聖霊降臨節第18主日
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マルコによる福音書14章10~25節(新約P91~92)
■説教題:「 一同が席に着いて 」
■讃美歌:204 ( よろこびの日よ、ひかりの日よ、)567( 主は命を 惜しまず捨て )
先週は1日だけ太陽が見えましたけれども、ほとんどの日は雨模様でした。今年は気象がちょっと異常な感じがいたします。今日は礼拝後にナルドの会が予定されていましたけれども、天気予報を見ると、ちょうど前線と台風がこの辺りを通過するという内容でしたので、万が一のことを考えて延期をすることになりました。また、今朝はさすがに天候が悪いので、ジュニア礼拝は私と奏楽をしてくださる川谷さんとの2人かしらと思っておりました。そうしましたら今日も、立川駅から雨の中を歩いて来た生徒や車で送ってもらった生徒も来ました。そしてなんと、教会まで歩いて来られるところに住んでいる小さな生徒が、可愛い雨靴をはいてお祖母様と一緒に来られました。そういうわけで、このような時にいつも悪い方に考えてしまうのが私の不信仰な点です。だからこそ今、そういう悪条件の中で神様が一人一人に招きの声をかけ、教会に集めてくださる幸いを心から感謝したいと思います。
先ほど、司式者にマルコによる福音書の14章の10節から25節を読んでいただきました。牧師が本日の聖書箇所を間違えて、14章の10節から26節というところを25節として選んでしまったのではないかと思われた方もいるかもしれません。けれども、よく読んでいただくとなぜ25節になっているかということが分かります。なぜなら、25節と26節の間には場面の変化があるからです。14章10節から25節には、都エルサレムでの主イエスの受難の出来事の直前の二つの重要な出来事が記されています。一つは、主イエスの受難において大きな役割を果たしたイスカリオテのユダの行動とそれに対しての主イエスの対応、もう一つは、過越の食事であり最後の晩餐と呼ばれる出来事です。そして、不思議なことにはそれらの出来事が、入り組んで描かれているのです。25節までは、主イエスが弟子たちとともに最後の晩餐をしたという場面が描かれています。この礼拝堂の後ろの壁に写真が飾られています。その写真の2階部分が最後の晩餐の部屋であると言い伝えられています。26節では「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」と記されていますから、場面の変化があるわけです。そういうことで、本日の聖書箇所は25節までで区切られているのでしょう。
これまでに何度も繰り返して申し上げていますが、マルコによる福音書は14章から、主イエス・キリストの受難すなわち十字架のへの歩みを描いています。そして、本日の聖書箇所である14章10節,11節には十二人の弟子のひとりであるイスカリオテのユダが、主イエスを祭司長たちにお金で「引き渡す」約束をしている場面が描かれています。その結果、祭司長たちや律法学者たちの主イエスを殺そうとする計画は、彼らの思いを超えてスムースにより早く実現したのでした。そういうわけで、ユダは自分から祭司長たちのところへ出かけて行って、イエスを「引き渡す」ことを申し出たのです。私たちの中には、裏切りという行為は他者に金品を提示されてそそのかされた結果である、という先入観があります。本日の聖書箇所で記されている、新約聖書の中でも有名なユダの裏切りについても、律法学者や祭司長たちに持ちかけられたのだというイメージを抱いているのではないでしょうか。しかし、このわずか二節を読みますと、ユダの裏切りはお金の誘惑に負けてついやってしまったということではなくて、彼自身の積極的な意志をもってなされたことであることが分かります。そこから、私たちが罪を犯すという場合にも、他者からの誘いや働きかけに負けてしまうということだけではなく、そこには自分自身の意志が少なからず働いているという深い闇が潜んでいるということが分かります。私自身がキリスト教信仰をもって50年以上歩み続けることができたのは、キリスト教が見つめているのはそのような罪の深さからの救いである、と気づいたからです。
ユダは、先ほども申しましたように、10節で「十二人の一人」と記されているように、主イエスご自身が選び出し、側近くに置いて行動を共にし、神の国の福音を宣べ伝え悪霊を追い出す働きをするようにと派遣なさった十二人の弟子の一人です。その弟子が裏切者となったのです。その不思議さについては、有名な神学者が研究をしています。また、ある人々は、ユダがそのような者であることをなぜ主イエスは見抜けなかったのか、主イエスの弟子選びは失敗だったのではないか、と批判をしています。それほど、ユダの裏切りの出来事は不思議なのです。そして、聖書はユダの具体的な行動は記していますが、彼の心の動きを全く語っていません。あのナルドの香油注ぎの場面で、「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言った人がいました。マルコによる福音書は、そう言ったのは「そこにいた人の何人か」だと記していますが、マタイによる福音書では「弟子たちはこれを見て、憤慨して言った」となっており、ヨハネによる福音書では「後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った」と記されています。そうであるならば、そこにはユダと主イエスの思いのすれ違いがあったことになります。ユダはこの香油を売って貧しい人を助けるために使うべきだと思っていたのに対して、主イエスはこの女性の心からの献げものを喜んで受け入れられたのです。それで、ユダはひがみや妬みを抱いたのかもしれません。自分の意見が入れられなかったり反対されると、自分自身の人格を全面的に否定されてしまったように思い込んで恨みを抱く、ということは私たちの間でもよくあります。ユダもそのようにして主イエスを恨んでしまったのかもしれません。あるいは、ユダは次のように考えてこれまで主イエスに従っていたのかもしれません。「主イエスがユダヤ人の先頭に立ってローマの支配を打ち破り、神の国イスラエルを再興することを期待していた。けれども、主イエスは一向に立ち上がろうとなさらない。それならば、主イエスを引き渡すということをすれば、主イエスが本当の姿を現して、ユダヤ人の救い主であることを皆の前に明らかになさるのではないか。」だからこそ、そのような状況を作り出したのだとも言われます。そのように考えれば、マタイによる福音書に語られていることですが、主イエスの十字架の死刑が確定したのを見てユダが後悔し自殺した、ということともつじつまが合う、と考える立場もあります。そういうわけで、ユダの裏切りの理由を私たちはいろいろに想像するわけですが、聖書はそういうことを全く語っていない、ということも事実です。つまり福音書を書いた著者たちは、ユダが何故裏切ったのかについては関心を寄せていないのです。マルコによる福音書は、「十二人の一人」が自らの意志で主イエスを裏切った、という事実のみに目を向けています。そして、主イエスがそのことを既に予告しておられたということに注目し、主イエスご自身が、「捕えられる」ではなくて「引き渡される」と語っておられたと記しています。ここからは、これらすべてのことが神様のご計画の中にあり、主イエスはその全てをご存知なのだ、ということが見つめられていることが分かります。そして、そのことは12節以下のいわゆる最後の晩餐の記事においても語られていきます。
12節から16節には、主イエスご自身が過ぎ越しの食事のための手はずを整え備えておられたことと、それを弟子たちに指示をして準備をさせたということが記されています。この過ぎ越しの食事の主人は主イエスご自身である、ということがそこから見えてきます。弟子たちは主イエスによってこの食事に招かれたのです。17節に「夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた」とあります。ここにも「十二人」とあり、そこにはユダが含まれています。18節に「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』」とあります。この時の食事風景については、「最後の晩餐」という題の絵画を見ますと、大きなテーブルに主イエスと弟子たちが横並びに着席して食事をしているように描かれています。けれども、この当時の食事風景というのは、左ひじをテーブルについて、体を後ろの方に伸ばして寝そべって食事をしたと言われています。そうすると、「一同が席に着いて」というのは、心を許した仲間たちが左肘をついて寝転んで食事をしている、という和やかな風景が思い浮かびます。まさかその中の一人が、この食事の後に主イエスを裏切ることになるということは想像できません。それが重要なことなのです。「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者」というのは、食事の席に着いている一同、つまり、最後まで一緒に主イエスと行動を共にしている者たちの一人ということを強調しています。弟子たちは「まさかわたしのことでは」と言い始めます。主イエスは、さらにお語りになりました。20節です。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」。土で焼かれた大きな鉢にぶどう酒が満たされていて、そのぶどう酒に皆がパンを浸して食べている、そのような情景が考えられます。主イエスはここで、主イエスを裏切って主イエスを抹殺しようとする思いが、誰の心にも、すなわち同じ鉢でパンをぶどう酒に浸して食べているほどの親しい者たちの心にもあることを意識させようとしておられるのです。
21節で主イエスは、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその人は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」とお語りになりました。「人の子」とは主イエスのことです。主イエスは聖書に書いてある通りに去っていく、それは、主イエスが引き渡され十字架につけられて殺される、それら全てのことがあらかじめ聖書に書いてあることであり、神様のご計画によることだ、ということです。そういう意味で、ユダの裏切りも神様のご意志であり、ご計画の中にあるのです。そのことを通して、私たち罪人を救って下さる神様のご計画が前進していくのです。けれども、主イエスを裏切ったユダ自身に罪がないわけではありません。ユダはやはり自分の意志で主イエスを引き渡したのです。神様の独り子、救い主イエスの教えを最後まで信じて受け入れ、主イエスが歩んでおられる道に従っていくことを拒み、主イエスを抹殺しようとしたのです。それは恐ろしい罪です。そのことによって「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われるような人生になってしまうのです。ある方は、「ですから私たちは単なる謙遜で、自分もユダと同じような裏切り者ですなどと言うことはできません。そんなふうに簡単に言う人は、人間の罪の深刻さ、罪に対する神様の裁きの厳しさがまだ分かっていないのです。」と厳しく語っておられます。主イエスを裏切る罪のこの深刻さがより深く見えてくると、主イエスがこのイスカリオテのユダを含めた十二人を招き、過越の食事にあずからせて下さっていることの大きな、驚くべき恵みが伝わってきます。22節から24節までは、私たちの主日礼拝で執り行われる聖餐式の時に読んでいる制定語と内容はほとんど同じです。制定語は、コリントの信徒への手紙一の11章23節から25節です。聖餐は、神の独り子であられる主イエスが、十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちの罪の赦しのための贖いを成し遂げて下さった、その救いの恵みを私たちが味わい、それによって生かされるための食事です。主イエスはその食卓を備えて、ユダも含めた弟子たちを、そして私たちを、招いて下さっているのです。私たちは皆、主イエスを裏切る思いを持っており、「まさかわたしのことでは」と恐れおののいて主イエスに問わざるを得ない者です。けれども、主イエスの救いの恵みによる招きに応えて洗礼を受け、聖餐によって養われて生きるならば、生まれなかった方がよかったと言われるような罪人である私たちが、生れてきてよかった者として、祝福を豊かに受ける人生を歩むことができるのだと思います。
お祈りをします。
主なる神様、今日は非常に悪天候ということが予想されていました。これから午後にかけて、そういうことになるかもしれません。けれども、私たちはこの立川教会まで集うことができました。そして、礼拝をささげることができました。感謝をいたします。今週1週間も悪天候の予報が出ています。どうぞ、そのような中にあっても、神様の恵みの中に私たちは置かれていることを深く覚えながら歩んでいくことができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげげいたします。アーメン
立川教会牧師 保科 けい子
