お知らせ

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5月第2週の礼拝説教
■日 時:2025年5月11日(日)10:30~11:30復活節第4主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:ヨハネによる福音書11章17~27節(新約P189)
■説教題:「 復活であり、命である 」 
■讃美歌:8(心の底より 神に感謝せん、)575(球根の中には 花が秘められ、)

ヨハネによる福音書11章には、主イエスがなさった最大のしるし、言い換えれば奇跡である「ラザロの復活」が語られています。本日の聖書箇所は、その中でも主イエスがご自身の存在を明らかにされているという点で、ヨハネによる福音書の頂点に位置していると言うことができます。ラザロはベタニアに住んでいました。18節にあるように、ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどの所、それは3キロ弱ほどの距離です。そこに、ラザロは二人の姉妹マルタとマリアと共に暮らしていました。この三人は、主イエスを信じており、愛しており、また主イエスから愛されていた人々だったことは11章の1節から5節に記されています。そのラザロが病気になり、死にそうになったので、姉妹たちは主イエスに遣いをやって「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。この時の主イエスは「ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。」と10章の40節に記されています。主イエスは、姉妹たちからの緊急の知らせを聞いても、なお二日間行動を起こしませんでした。その間にラザロは死にました。そして、本日の聖書箇所の冒頭には、主イエスがベタニアに来てみると、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」と書かれています。当時は人が死ぬと直ちに墓に葬られたようですから、葬られて四日ということは死んでから四日たっているということです。それは、後の39節に「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」とありますが、確実にラザロが死んでしまっていることを明らかにしているのです。そのようなところに、主イエス・キリストが来られたのです。そこから「ラザロの復活」の出来事が始まったのです。

主イエスが来られたと聞いて、マルタは迎えには行きましたが、マリアは家の中に座っているだけでした。ここにこの二人の姉妹の違いが記されています。マルタとマリアの姉妹と言うと、私たちはルカによる福音書10章のマルタとマリアの話をすぐに思い出します。そこでは、主イエスをもてなすために忙しく立ち働いているマルタと主の足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアの姿が対照的に描かれていますが、ヨハネによる福音書では、愛する兄弟を喪ってしまったという悲しみの中でも気丈に立ち上がり主イエスを迎えに行き自分の思いを訴えていくマルタと、悲しみにうちひしがれて立ち上がることもできずにいるマリアの姿を描いています。しかし、この二人は主イエスに全く同じことを言いました。先ずマルタが21節で、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。一方マリアは、本日は読みませんでしたがまったく同じことを32節で語っています。主イエスがここにいて下さったなら、ラザロの病気は癒され死ぬことはなかった、それが彼女らに共通している思いです。マルタもマリアも、主イエスが癒しの力を持った救い主であられることを信じているのです。だからこそ、彼女らは主イエスのもとに使いをやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたのです。その信頼はラザロが死んでしまった今も変わってはいません。それゆえにこそ、二人の言葉には「なぜもっと早く、間に合うように来て下さらなかったのですか」という恨みのような思いも感じられます。主イエスによる救いを信じて願ったのに主イエスは来て下さらなかった、救いのみ業を行って下さらなかった、そのために、今自分たちは大きな悲しみと苦しみの中にいる、マルタとマリアはそのように感じていたのです。それと同じような思いが私たちにもあるのではないでしょうか。主イエスを信じて一生懸命に祈り続け願い続けて来たのに、そのことが叶わなかった、という究極の出来事は、私たちにとっては「死」でありあるいは「絶望」という言葉で表されるようなものでしょう。そのような状況に置かれたとき、私たちもまたマルタとマリアの姉妹と同じように、「主よ、もしここにいてみ業を行って下さっていたなら、このようなことにはならなかったでしょうに」という思いにとらわれてしまうのではないかと思います。

しかし、マルタは「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と語ったことが、22節で記されています。「今でも」というのは、兄弟ラザロが死んでしまった今でも、ということです。その悲しみの現実の中でも彼女は、主イエスが願ったことは父なる神が必ずかなえて下さることを信じているのです。つまり、主イエスが神に願ってくださるなら救いが実現する、主イエスこそ、苦しみや悲しみの中にある私たちに救いを与えて下さる方であられると信じて、主イエスによる救いになお期待しているのです。私たちもまた、マルタと同様にこの期待を抱いているのではないでしょうか。そのマルタに主イエスは「あなたの兄弟は復活する」と宣言なさいました。兄弟の死を悲しみ嘆いているマルタに、あなたの兄弟には新しい命が与えられ、あなたは悲しみを取り去られる、という救いを宣言して下さったのです。それは私たちに対しても告げられていることです。このみ言葉を聞いたマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。「終わりの日」、それは神によってこの世が終わる日、終末の日であり、神の民の救いが完成する日でもある、と考えられていました。マルタは、「あなたの兄弟は復活する」という主イエスのお言葉を、この「終わりの日の復活」のこととして受け止めたのです。私たちも、主イエスによる救いをそのように受け止めているのではないでしょうか。

ところで、本日の聖書箇所の中心はその後のところにあります。主イエスは、この正しい信仰を告白したマルタに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と語られたのです。ヨハネによる福音書において、主イエスは繰り返し「わたしは○○である」と語ってこられました。11章以前では、「わたしは命のパンである、わたしは世の光である、わたしは羊の門である、わたしは良い羊飼いである」などです。またこの後の15章には「わたしはまことのぶどうの木である」とも言われています。それらの「わたしは○○である」という言葉の頂点が25節にある「わたしは復活であり、命である」であると言えるでしょう。そして大事なのはこれが、他の言葉と同じように、将来のことではなく現在のこととして語られているということです。「わたしは復活であり、命である」は、将来、終わりの日に実現する救いだけではなくて、今既に主イエスによって実現している救いを語っているのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」というみ言葉にそれがはっきりと示されています。主イエスは、愛する者の死の悲しみにうちひしがれている彼女たちのところに来て下さり、「わたしは復活であり、命である」と告げて下さり、わたしを信じるなら、今ここで、死の力に勝利するわたしの救いがあなたに実現する、あなたの兄弟は復活し、あなたは終わりの日の復活を、今、この人生の中ではっきりと体験するのだ、と宣言して下さったのです。そして、そこには、「このことを信じるか」という問いかけがあります。復活であり命である主イエスを信じる者は、今、この人生において、終わりの日に与えられる復活と永遠の命に確かに与る、と言うのです。その恵みの体験は、主イエスを信じることの中でこそ起るのです。マルタは主イエスの問いに、直ちに「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じておりますと答えました。マルタは、ラザロの復活を体験したのでこのように信じたのではありません。この時点ではまだラザロは復活していません。死んで墓に葬られたままです。目に見える現実を支配しているのは依然として死の力であって、悲しみと嘆きの状況は少しも変わっていないのです。しかしその中で、主イエスが来て下さり、「わたしは復活であり、命である」と宣言して下さっているのです。そして、2000年以上にわたって、教会はその主イエスの宣言を信じ、主イエスの復活を記念する日曜日を主の日と定め、全世界で礼拝をささげ続けてきました。ここにこそ、本当の救いがあることを、私たちもまた確信して歩み続けましょう。

立川教会牧師  保科 けい子