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1月第2週の礼拝説教
■日 時:2026年1月11日(日)10:30~11:30降誕節第3主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マルコによる福音書1章9~11節(新約P61)
■説教題:「 天が避けて 」
■讃美歌:54(聖霊みちびく 神のことばは)280(馬槽のなかに うぶごえあげ、)
本日は、クリスマスから2週間たった主の日になります。カトリック教会などでは、クリスマスに関連する最後の祝日と位置づけ、「主の洗礼の祝日」と呼んでいることを今回初めて知りました。そういう祝日があるということが,今までは私の認識の中にありませんでした。一般的な教会暦では、クリスマスから受難節までの期間を降誕節として覚え、主の日毎の礼拝では、真(まこと)の人として世を歩まれたイエス・キリストに思いを寄せます。イエスとは誰なのか、神の子である方が地上を生きるとはどのようなものであるかを私たちは深く考えながら、過ごすことが勧められているのです。その降誕節の中の最も重要な出来事が、主イエスが洗礼を受けられるということなのです。それは、主イエスが神の子として自らを顕されたという重要な出来事であり、主イエスが神の子としての活動を始める出発点でもあります。そのような意味を考えると、新しい年の初めに際して、主イエスの洗礼の記事を読むことは、信仰者として歩む者にとっては、自分自身の洗礼の時のことを思い起こして、新しく一年を始めていこうという決意を新たにさせられることにもなるのです。
ところで、本日の聖書箇所のマルコによる福音書1章9節から11節には、「イエス、洗礼(バプテスマ)を受ける」という見出しがついており、その下の括弧の中には、マタイによる福音書にもルカによる福音書にも同じ内容の記事が書かれていることが示されています。興味のある方は、どうぞ読み比べてみてください。マルコによる福音書は、その時の洗礼の様子を簡潔に記しています。9節には、「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた」とあります。この短い文章によって、福音書の著者マルコは、主イエスがどのような方なのか、を明らかにしようとしています。主イエスは「異邦人のガリラヤ」と軽蔑されていた辺境の地、寒村と呼ぶ方がふさわしいナザレから来た、というのです。ヨハネによる福音書を見ますと、ナタナエルという人が「ナザレから何の良いものが出るだろうか」と思わず本音を言ってしまったことが記されています。けれども、真(まこと)の人である主イエスは確かにナザレの人であって、ヨハネから洗礼を受けられたのです。それが本日の箇所の最初に記されていることです。ヨハネの授けていた洗礼は、「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めの洗礼」です。悔い改めて罪の赦しを得るという救いのしるしとして、その洗礼は授けられていたのです。それは当然ながら、罪を犯している者、罪人が受ける洗礼です。しかし、私たち人間の中には罪を犯したことがないという者はいないわけですから、私たちすべての者にとって与えられる洗礼であるということもできます。自分が罪人であり、このままでは救いにあずかることができないことを認めて罪を悔い、神様からの赦しを求めて神様のもとに立ち帰る、それが悔い改めることです。これはよく言われることですけれども、今まで自分自身が歩いていた道筋、その道筋を神様の方に大きく方向転換をする回心(心が回ると書く)という悔い改めの出来事は、今までの私たちの歩みを全く神様の方に方向転換をする、そういうことであると考えられます。それによって、罪の赦しが、そして救いが与えられる、その救いのしるしが洗礼なのです。おそらく、バプテスマのヨハネは、洗礼を受けようとする人々に、これはマタイによる福音書3章7節から8節に記されているのですが、「子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。」と、厳しく罪の悔い改めを迫っていたでしょう。ですから、その場の雰囲気は緊張感あふれるものであったと思われます。本日の聖書箇所は描写が非常に短いので、そういう状況説明はされていません。しかし、周りにいる人たちは非常に緊張感を持って、その洗礼の様子を見ていたと考えられます。
10節に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、ご覧になった」と記されています。「天が裂けて」という表現は、皆さんも「どこかで聞いたことがあるな」と思われるかもしれませんが、例えば、このマルコによる福音書の最後のほうの15章38節で、再び用いられています。主イエスが十字架上で息を引き取られた時に、「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と描かれているのです。神殿の幕が「真っ二つに裂けた」という言葉は、神と人とを隔てる壁が壊されるということでもあります。その出来事が、主イエスの洗礼の時にすでに聖霊によって起こっていたということを、本日の聖書箇所は語っているのです。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえてきたのです。「わたしの心に適う者」とは、元の言葉では「あなたはわたしの喜び」とも読める表現になっています。ある方は、この箇所について、次のように解説されています。「注意したいのはここには何の条件も付与されていないことである。『心に適う』とか『わたしの喜び』という場合、人間は大抵何かの条件付きでそう言う。『あなたはわたしの愛する子どもだ。あなたがただそこにいることが、わたしの喜びだ』、そのまま、ありのままの私が、神から愛され喜びとされている、洗礼によって主イエスは、この呼びかけを聞いたのだと言う。ただ思い巡らしたいのは、洗礼の後に、主イエスが聞いたこの言葉は、ただ主イエスのみに向けられ、語られた言葉であるのだろうか。私たちが洗礼を受けるのは、バプテスマのヨハネの声、『悔い改めよ』を聞くからではない。ただ主イエスが、ひとりの人として、多くの人々に交じって、ヨルダン川の水につかり、バプテスマを受けた、この一事によるのである。主イエスが私たちのひとりとなって、私達と共に生きて、歩んでくださる、その見えるしるしが、バプテスマである。これに神は『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と語られる。私たちも主イエスと共に在って、この同じみ言葉を聞くのではないか。」この解説を読んでいて、本当にそうだなと納得しましたので、ちょっと長く引用しました。
先週もお話ししましたが、主「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。」と、ルカによる福音書3章23節は語ります。その直前の3章21節から22節には、本日の聖書箇所と同じ内容が記されています。「21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」「天が裂けて」は「天が開け」という表現に変わっていますが、周囲にいた人々が見聞きした状況は同じだったのではないでしょうか。とにかく、私たちの日常的な感覚では理解し難い出来事が、バプテスマのヨハネと主イエスと天からの声という情景の中で繰り広げられていたのです。その周りには、この情景を見聞きしていた人たちが何人かいたと思います。天が裂ける様子、聖霊が鳩のように主イエス・キリストに下ってくる様子、そういう出来事を見聞きした人たちがいたのです。実は、この場面から主イエスの公生涯(これは先週も言ったと思いますが、公(おおやけ)の生涯と書きます)が始まると言われています。新約聖書を読むと、主イエス・キリストの誕生の様子はマタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく記されています。そして、十字架の出来事は4つの福音書全部に記されています。先週お話ししたのは、ルカによる福音書の中で、主イエスが12歳を迎えたことが描かれている場面でした。けれども、誕生から12歳まで、さらには12歳から30歳ぐらいまで、その間の出来事については、新約聖書はほとんど記しておりません。その間どのような生活をなさっていたか、私たちもまたそこで知ることができません。しかし、ここでバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた場面、このところから主イエス・キリストとしての歩みが確かに始められていったことを私たちは聖書を読みながら感じることができます。
そこに主イエスの公生涯の出発点があり、そのことを2000年以上にわたって宣べ伝え続けている教会の働きが続きます。教会は後に、このイエスの洗礼の出来事によって「洗礼」の意味が大きく変わったのだということを理解しました。それまで、つまりヨハネの洗礼にいたるまでは、洗礼は悔い改めのしるしとして行われる人間の業でした。しかし、主イエスの受けられた洗礼の場合、そこに神が介入されました。神がご自分の霊を注ぎ、主イエスがご自分の子であることを宣言されたのです。主イエスの洗礼以後、主イエスの名によって洗礼が授けられるとき、そこに必ず神が働かれるようになりました。その主イエス・キリストが,真の人間として、あるいは真の神として私たちに親しく臨んでこられるお方であるということを、本日の聖書箇所はっきりと宣言していると思います。ですから、主イエスの名によって洗礼が授けられるとき、そこに必ず神様が働かれるようになっていることを教会は確信し、洗礼を受ける者として、あるいはその洗礼に立ち会う者として、私たちは確かな証人として、立てられているわけです。ヨハネはこのことを「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1章8節)と言い表したのです。私たちもまた、天が裂けて、聖霊が鳩のように私たち自身に降って来ることを確信してまいりましょう。
お祈りします。
主なる神様、今日は主イエス・キリストが公生涯の初めにあたって、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたという出来事の場面を、聖書のみ言葉から見聞きいたしました。私たちはその場に立ち会っていたわけではありません。しかし、そこに確かに神様が働かれ、神様が主イエス・キリストを「あなたはわたしの愛する子」と呼んで立ててくださっていることを、私たちも確かに聞きます。私たちの歩みは、実は、主イエス・キリストにそのように働いた神様の力を、また主イエス・キリストが神様の「心に敵う者」となってなされた御業を考えることによって、確かなものと整えられていきます。そのことを、あなたの前にいつも明らかにしていくことができるように、一人一人に力をお与えください。今日、ここに集い得なかった一人ひとりの上にも、神様の豊かな祝福がありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。
立川教会牧師 保科 けい子
