◆立川教会の定例集会の案内
【毎日曜日】
・教会学校(幼児・小学生対象):8:30-9:00
・ジュニア礼拝(中高生対象):9:15-9:45
・主日礼拝:10:30-11:30
【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
現在、旧約聖書の「創世記」を学んでいます。
主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法
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※Facebookユーザーでない場合、「ログイン」または「新しいアカウントを作成」の画面表示が出ますが、ログインや新しいアカウントを作成しなくても視聴することができますので、無視して問題ありません。
※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。
◆日本基督教団立川教会 創立1951年2月11日 主任担任教師 保科けい子
◆〒190-0022 東京都立川市錦町3丁目11番9号 電話/FAX042-523-2023
◆郵便振替 口座名:日本基督教団立川教会 口座番号:00110-1-92251
◆郵貯銀行 預金種目:当座預金 店名:0一九 口座番号:0092251
◆教会墓地 八王子市南淺川町3079 第二高尾霊園(京王線高尾山口駅下車徒歩20分)
3月第3週の礼拝説教
■日 時:2023年3月19日(日)10:30-11:30 受難節第4主日
■説 教: 保科けい子 牧師
■説教題:「 弟子たちは沈黙を守り 」
■聖 書:ルカによる福音書9章28~36節(新約p123)
■讃美歌:7「ほめたたえよ、力強き主を。」296「いのちのいのちよ、」
先週の3月15日(水)、新聞の一面のコラムに次のような文章がありました。「『知る』と『分かる』はどう違うのか。作家の大江健三郎さんは『知る』から『分かる』に進むと、自分で知識を使いこなせるようになると定義した。その先には『悟る』があって、まったく新しい発想が生まれる、と」。この文章は、3月3日に作家の大江健三郎さんが亡くなられたことに関連して書かれたものと思われます。しかし、出典が明らかにされていないので、いつ頃の文章かは分かりませんでした。検索していましたら、朝日新聞2005年11月8日(火)朝刊で「伝える言葉 – 『知る』と『わかる』 - 反復し『さとる』足場に」という題で、取り上げられたものでした。宮城の高校の十周年記念の催しに、大江健三郎さんが話しに行った時の内容だということがわかりました。正確には柳田国男の考え方と関連付けながら、「『知る』から『わかる』と進むことで、知識は自分で使いこなせるものとなります。そして柳田は『おぼえる』の次に『さとる』を置きますが、私は『わかる』の先にも『さとる』があるように思います。それは知ったことを自分で使えるようにすることから、すっかり新しい発想に至ることです。」と述べていました。そのことから私は、1990年代に出会った阿部謹也先生の『自分のなかに歴史をよむ』という本に出てくる阿部先生の恩師である上原専禄先生から語られたという言葉「解るということは、それによって自分が変わることでしょう」「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」を思い出しました。先週は、本日の聖書箇所が私自身になかなか入ってこないので、困っていましたので、先ほど.紹介した言葉を思い出したときに目の前が少し明るくなったような気がしました。
いつも申し上げていることですが、毎週の主日礼拝に取り上げている聖書箇所は日本基督教団の聖書日課から選んでいます。本日の聖書箇所も、これまでに何度も何度も読んだことのある個所です。本日のルカによる福音書と同様に、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも、「ペトロ、信仰を言い表す」「イエス、死と復活を予告する」「イエスの姿が変わる」という三点セットのようにして順を追って並べられているので、非常に重要な箇所であることがわかります。しかし、私自身のこととして、受難節になぜこの箇所を読むのかと考えると、十分な答えが見つかりませんでした。
さて、ルカによる福音書9章28節にまいりましょう。この日も主イエスは、いつも大事なことがある時に連れていくペトロ、ヨハネ、ヤコブと共に、祈るために山に登られました。そして29節では「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」と記されています。「山上の変貌」と呼ばれている有名な出来事が起こったのです。ある方はこの出来事を「神様の独り子、救い主キリストとしての、主イエス本来の栄光がここでこの弟子たちに示されたのです。この栄光のお姿は、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、十字架につけられて殺されることに至る主イエスの地上の歩みにおいては隠されていたものです。この間主イエスと出会った人は誰も、この栄光のお姿を見てはいないのです。主イエスのことを描いたいわゆる聖画には、主イエスに後光が射しているものがありますが、実際に地上を歩まれた主イエスにはそんなものはありません。栄光のお姿は隠されていたのです。しかしこの栄光に輝くお姿こそ、神様の独り子、まことの神であられる主イエスの本当のお姿です。言ってみれば主イエスの正体です。地上のご生涯の間は隠されていた本当のお姿、栄光に輝く主イエスの正体が、この山上の変貌の出来事において、一時、三人の弟子たちにのみ示されたのです。彼らは八日前に主イエスから、『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』という問いかけを受けました。ペトロが彼らを代表して、『神からのメシアです』と答えました。山上の変貌の出来事において、この答えが正しかったこと、主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、救い主であられることがはっきりと示されたのです。」と述べています。そして、そのことは主イエスと語り合う人物として、旧約聖書のなかで律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤが現れたことによって、明らかになっています。さらに、ルカによる福音書だけが、この三人が語り合っていたことの内容を31節で語っています。モーセとエリヤの「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。つまり、モーセとエリヤと主イエスは、三人ともが栄光に輝く姿で、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」話していたのです。
ペトロと仲間は、そのような栄光に輝く主イエスがモーセとエリヤと語り合っているのを見、「自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」というような状態になってしまいました。とにかく素晴らしい出来事なので、小屋を三つ建ててそこに入ってもらおう、そうすれば、他の弟子たちも連れて来て見せることができる、さらに多くの人々に栄光に輝く主イエスのお姿を見せることができる、そのように興奮して語ってしまったのです。先週は、多くの人々がベースボールのにわかファンになり日本中が興奮していたと言われています。主イエスが旧約聖書の代表的な人物と並ぶ素晴らしい姿を見た三人の弟子たちもそのような状態だったのかもしれません。ところが、34節には、「ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」とあります。栄光に輝く三人の姿を、雲が覆い隠していったのです。雲は旧約聖書において、神様が人間にご自身を現し、出会おうとなさる時に現れるものです。それは神様が出会って下さることの印であると同時に、その神様のお姿を人間の目からは隠す働きもしています。その雲の中から神様のみ声が聞えたのです。神様は、主イエスの栄光のお姿を人々が直接見ることを拒否なさったのです。栄光のお姿を見るのは、この時、この三人の弟子のみに与えられた特別の体験です。そして、35節では「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が聞こえてことが記され、36節では主イエスだけがそこにおられたと記されています。その後、不思議なことに「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。」とこの出来事は結ばれています。
なぜ、弟子たちは沈黙を守り続けたのか、そのことが私自身は長年自分のこととして納得して理解することができませんでした。しかし、先週、「知る」「分かる」という言葉の意味を再認識させられた時に、その出来事を本当の意味で分かることがなければ、つまり、その出来事によって自分自身の歩みが変えられていくことがなければ、自分自身が生きていくことにはならない、と思い知らされました。ここでの弟子たちも素晴らしい出来事を自分自身の目で見、聞きました。しかし、それはあくまで知識として「知る」段階の事柄だったのでしょう。そして、やがてその出来事は思い出すたびに恐れを感じさせるようなものになっていったのかもしれません。だからこそ、その出来事を人々に語り伝えることができなかったのだと思います。けれども、私たちは知っています。主イエスの十字架と復活の後に、その弟子たちがここでの出来事の本当の意味を知って、一人一人がその人生を大きく変えられ、主イエスのことを宣べ伝えなければ生きていけない者にされていったのです。山上の変貌での栄光に輝く主イエスの姿は、その弟子たちをいつも励ましてくださったのでしょう。そして、今受難節を過ごしている私たちもまた、その主イエスに励まされて主イエスの受難を自分自身のことと関連付けて受け止め、本当の意味を知り、歩み続けたいと思います。
立川教会牧師 保科 けい子