お知らせ

◆立川教会の定例集会の案内
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【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
 現在、旧約聖書を学んでいます。

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◆日本基督教団立川教会 創立1951年2月11日 主任担任教師 保科けい子
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4月第1週の礼拝説教
■日 時:2024年4月7日(日)10:30~11:30 復活節第2主日
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:ヨハネによる福音書20章19節~31節(新約p210)
■説教題:「 信じない者ではなく 」 
■讃美歌:120「 主はわがかいぬし」197「 ああ主のひとみ、 」

本日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書第20章19節は、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」と書き出されています。「その日」とは、主イエス・キリストが復活なさったイースターの日です。先週のイースター礼拝でもお話ししましたが、そのことを覚えて教会は日曜日に礼拝をしているのです。つまり、教会での礼拝が行われ続ける限り、主イエスの復活は覚えられ続けているということになります。直前の18節に「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」と記されていますから、弟子たちは既にマグダラのマリアから、主イエスの復活を告げられていました。また、主イエスからの伝言である「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」という言葉も彼女から聞いたはずです。けれども、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。なぜなら、主イエスがユダヤ人たちによって捕えられ、ローマ総督ピラトに引き渡されて十字架につけられて殺されてしまったので、それと同じことが自分たちにも起こると考えていたのでしょう。そのような弟子たちの「真ん中に」復活なさった主イエスは来て立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。このことはまた、現代の私たちの状況を重ねて考えさせられる出来事です。固く閉ざしている私たちの心の真ん中に主イエスが入って来て、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さる、そのことを信じることが復活なさった主イエスと出会うことなのだと思います。

20節にまいりましょう。主イエスは「手とわき腹とをお見せになった」と記されています。それは十字架に釘打たれた手であり、槍で突かれた傷があるわき腹でした。その傷を見せつつ主イエスは重ねて「あなたがたに平和があるように」と言われました。それは主イエスが、彼らの弱さと不信仰をしっかりと見つめつつも、それを赦して彼らに神の祝福を与えて下さるということです。そして、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と語りかけ、彼らにもう一度新たな使命をお与えになったことを記しているのが21節です。さらに22節には「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」とあります。主イエスが弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を与えて下さったことによって、彼らは新しく生き始めたのです。この箇所を読むときに、私はいつでも旧約聖書の創世記2章7節を思い起こします。そこには「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。最初の人間アダムの創造の出来事です。それと同じ出来事が、復活なさった主イエスが「聖霊を受けなさい」と言って息を吹きかけて下さったことによって、弟子たちの上に起こっているのではないでしょうか。ですから、弟子たちはそこからまったく新しく創造された者として立ち直ることができるはずなのです。このことから、私たちは使徒言行録2章に語られているペンテコステの出来事をも思い浮かべることができます。父なる神と主イエスのもとから聖霊が弟子たちに降り、伝道が開始され教会が誕生したのです。ヨハネによる福音書は、その同じ出来事を、主の復活の日の夕方に、主イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と語りかけ、彼らを派遣なさったと語っているのだと思います。いずれにせよ、私たちが今、この時に主の日の礼拝をささげている、このことに主イエスが復活なさったことの確かなしるしがあるのです。

ところで、ヨハネによる福音書20章24節以下には、その場面にいなかった「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス」が出て来ます。彼はヨハネによる福音書にこれまでに何度か登場しておりました。とても熱心に主イエスに従おうとしていたけれども、それと同時に、自分自身で納得できないことや分からないことをはっきり口に出す人だったというように描かれています。そういう彼の性格が本日の箇所25節にも現れています。すでにお話ししましたが、イースターの日の夕方に弟子たちが集まっていたところに復活した主イエスが来られた時、彼はその場にいませんでした。ですから、おそらく他の弟子たちは彼に「わたしたちは主を見た」と何度も語ったのではないでしょうか。しかしトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と頑なにその説明を拒否したのです。彼の頑固な性格がここに現れています。26節に「さて八日の後」とあります。八日の後とは、主イエスが復活した週の初めの日を含めて数えて八日目ということであり、再び週の初めの日が巡ってきたということだという説明を聞いたことがあります。この日はトマスも他の弟子たちと一緒にいました。相変わらず弟子たちは戸に鍵をかけていました。先週、主イエスによって彼らは聖霊を与えられ、恐れから解放されて、主イエスの十字架と復活による罪の赦しを宣べ伝える者として人々のもとへと遣わされたはずです。それなのに、その弟子たちは一週間後になっても戸に鍵をかけて部屋の中に閉じ籠っているというのはおかしいのではないか、と思います。けれども、ここにこそ、私たち人間の恐れや頑なさというものは簡単には克服できないということが示されているのではないでしょうか。ある方はこの場の状況について、「ここに、主の日の教会の姿があります。彼らが集まっていたこの部屋は、今私たちが守っている礼拝の縮図です。礼拝には、主イエスを救い主と信じており、復活して生きておられる主イエスと出会い、主イエスが目には見えないけれども聖霊のお働きによって共にいて下さることを体験している人たちが勿論います。しかし同時に、主イエスを信じたい、信仰を得たいと思ってはいるけれども、あるいは聖書の教えやその信仰に興味や関心はあるけれども、信じることはできない、納得できない、分からない、と思っている人もいます。それでいいのです。それが教会の礼拝です。そのようにいろいろな人が共に集まっているところに、復活した主イエスが来て下さり、真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さるのです。復活した主イエスとの出会いがそこで起るのです。」と語っています。

24節から29節は、トマスの頑なな心の状態に焦点を当てていると読むこともできます。トマスは、一週間前の他の弟子たちと同じように、他の人々が何を語ろうとも、心の戸を閉ざして閉じ籠っています。そこに再び来られた主イエスは、弟子たちの真ん中にたち、先週と同じく「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さいました。そして、トマスには特別に、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られたのです。先週は、主イエスは弟子たちにまず「手とわき腹をお見せになった」のです。けれども今回のトマスには、彼の心をしっかりと捉えてくださったかのように、トマス自身が主イエスの傷に触って確かめてみなさい、と語りかけられたのです。いずれにせよ、主イエスが彼らの思いをしっかり見抜いて、それに応えるかのように、先だって語りかけられています。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と勧められているのです。この主イエスの語りかけに応えてトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。主イエスが復活して生きておられること、その主イエスこそ自分の主であり、自分の神であると彼は信じて、その信仰を告白したのです。この場面の解釈には二通りあるようです。一つは、トマスが主イエスの手の釘跡とわき腹の傷に触って確かめたので信じることができたという立場です。この解釈からいくと、29節で「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエスが語らたことが自然に受け止められるというのです。もう一つは、しっかりと傷を見たわけでも触ってその感触を確かめたのでもなく、主イエスがトマスのみに目を留めしっかりと「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけて下さったことによって彼は信じた、という立場です。どちらの立場にも一理あるような気がしますし、私たちの心の動きもまた、二つの立場の間を揺れ動いているのではないでしょうか。そして、現代の私たちは復活の主イエスを直接見ることができません。そのような意味では、まさに「見ないのに信じる人は、幸いである」という状況に置かれている、ということができると思います。

ヨハネによる福音書の20章21節では、そのような状況に置かれることになる人々に向けて、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と語りかけています。ここにもまた、「信じて」という言葉が出てきています。このことは、単にヨハネによる福音書を読む人のみに語られている、というのではなく、旧新約聖書66巻がそのような目的で書かれているということができます。私たちは、誰に強制されるわけでもなく、週の最初の日に主の招きに応えて教会に集い、共に聖書の御言葉に聞き讃美を歌い、礼拝をささげています。ここでこそ、「信じない者ではなく」とあえて逆説的に語られている主イエスの御言葉を共に聞いてまいりましょう。

立川教会牧師  保科 けい子