お知らせ

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【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
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7月第2週の礼拝説教
■日 時:2024年7月14日(日)10:30~11:30聖霊降臨節第9主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:ヨハネによる福音書6章16節~21節(新約p174~175)
■説教題:「 恐れることはない 」 
■讃美歌:127「 み恵みあふれる 」456「 わが魂を 愛するイエスよ、」

ヨハネによる福音書には、主イエスのなさった七つの奇跡が「しるし」と呼ばれて記されているということを、これまでに何度かお話ししてきました。6章には、その七つのうちの第四と第五のしるしが語られています。第四のしるしは、直前の段落に記されている、大麦のパン五つと魚二匹を主イエスが分け与えられたら男だけでも五千人の人々が満腹した、というものです。そこには、当時は人数には数えられなかった女性も子供もいたはずですから、壮大な出来事が起こっていたのです。それに続く本日の箇所16節から21節には、主イエスがガリラヤ湖の水の上を歩いて弟子たちの乗る舟に来られた、という第五のしるしが語られています。この第五のしるしは、第四のしるしにすぐ続いて語られていますが、話の流れにおいても深く関係があります。6章1節に「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」とあります。それはおそらく、ガリラヤにおいてしばしば滞在しておられたカファルナウムの町から向こう岸へと渡ったところへ行っておられたということでしょう。そこで、大勢の人々の見ている前でしるしを行い、それらの人々と共に食事をした後で、主イエスは「ひとりでまた山に退かれた。」のです。おそらく、おひとりで祈るためであったと思われます。

16節、17節にまいりましょう。「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした」とあります。つまり彼らは、その日の夕方に元いたカファルナウムへと戻ろうとしたわけです。その帰りの舟旅においてこの第五のしるしが起ったのです。17節の後半には、「既に暗くなっていたが」と記されています。同じ出来事を取り上げているマタイによる福音書やマルコによる福音書には、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」と状況説明がされています。そして、マルコによる福音書によりますと「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、

とより詳しく描写されています。マタイによる福音書もほとんど同じ描写です。ところが、ヨハネによる福音書の本日の聖書箇所では、弟子たちが舟に乗るのは夕方であり、しかも主イエスに強いられたわけではありません。ヨハネによる福音書の特徴は、「既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」と描写されている「暗さ」の問題なのです。ヨハネによる福音書は1章5節で「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」と記しており、既に福音書の書き出し部分で「光と暗闇」との対比が語られています。そのことを考えますと、本日の聖書箇所でも順序は異なりますが「暗闇と光」との対比を語っているということになるのではないかと思います。

ヨハネによる福音書は、弟子たちが自分たちだけで舟に乗り湖を渡っていったという事実が簡潔に語られているという印象を受けます。そして、そのことは、この福音書が書かれた当時の教会の、さらに言えば、現代の私たちのこの世における状況を象徴的に表していると考えられます。この歴史の中で、教会はしばしば舟にたとえられ、私たちの人生はしばしば舟旅にたとえられます。ヨハネによる福音書は、既に暗くなっていく中で主イエスが乗っておられない舟の様子を淡々と描いています。このことは、教会が、そして私たちが、この世を歩んでいく中で、主イエスがいつも共にいて下さるということを感じられなくなっている状況を示しているのではないかと思います。18節の「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」ということも、普段ならばかつて漁師であった者が何人もいるわけですから、恐れるような状況ではなかったことでしょう。そのように考えますと、弟子たちはそのような天候の変化に驚いて恐れたのではないことが非常にはっきりと見えてきます。19節に「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」とあります。5キロメートルぐらい漕ぎ進めたところで強風に漕ぎ悩んでいた弟子たちの舟に、主イエスが湖の上を歩いて近づいて来られたのです。マタイによる福音書とマルコによる福音書には、その主イエスの姿を幽霊が水の上を歩いて舟に近づいて来ると思い、恐れる弟子たちの姿を描いています。しかし、ヨハネによる福音書では、この場面も余計な状況説明をせず、「恐れた」という事実のみを語っているのです。そして、恐れている彼らに主イエスが「わたしだ。恐れることはない。」という言葉をおかけになったことに、この福音書を読む者の関心を集中させようとしている、との解説を読んだことがあります。そうしますと、この言葉こそ、ヨハネ福音書がこの第五のしるしにおいて示そうとしていることの中心であると考えられます。

 他の二つの福音書には、主イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という言葉を弟子たちにおかけになったと記されています。湖の上を歩いて来る主イエスのお姿を見て驚き、幽霊が出たと恐れている弟子たちに主イエスが、「幽霊ではないから安心しなさい。私だ。だから恐れることはない」とやさしくお語りになった情景が思い浮かんできます。語りかけられた言葉の中心は、「安心しなさい」にあるように感じられます。しかし、ヨハネによる福音書は「わたしだ」という宣言から始まっています。原文のギリシャ語の言葉は「エゴー エイミ」です。それは英語に当てはめれば、「アイ アム」です。ヨハネによる福音書において「エゴー エイミ」は非常に大事な意味を持っている言葉なのです。先ほど、ヨハネによる福音書は「光と暗闇」あるいは「暗闇と光」との対比が語られている、と申し上げたと思います。少し先になりますが、8章12節には「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と記されています。このみ言葉も最初の言葉は「「エゴー エイミ」から始まっています。「エゴー エイミ」という言葉は、それを語っておられる主イエスが神であられることを示すと考えられています。まさにそこに、生きておられる神が力をもって臨んでおられることを示す言葉なのです。湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られた主イエスは、最初にこの言葉をもって弟子たちに語りかけられました。まことの神であられる主イエスが、神としての奇跡の力、水の上を歩くという常識においては考えられない力をもって来て下さり、共にいて下さるのだ、ということを示して下さったのです。本日の箇所の最後は、21節に「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」と結ばれています。「迎え入れようとした。」と記すヨハネによる福音書は、「わたしだ。恐れることはない」というみ言葉をもって、生きておられる神として、奇跡のみ業を行って下さる方として来て下さる主イエスを、自分たちの舟に「迎え入れようとする」ことこそ大事なのだ、と語っているのではないでしょうか。ここから見えてくるのは、やはり、暗闇の中で心が動揺し主イエスの姿にさえ恐れを抱いてしまう弟子たちの姿を、具体的に分かりやすく描こうとするのではなく、「わたしだ」というただ一言によって、光に向かって歩み出そうとする者へと変えてくださる本当の救いの在り方ではないかと思います。私たちも今、立川教会という一艘の舟に共に乗り込んでいます。その現実の恵みを改めて受け止めてまいりましょう。

立川教会牧師  保科 けい子