◆立川教会の定例集会の案内
【毎日曜日】
・教会学校(幼児・小学生対象):8:30-9:00
・ジュニア礼拝(中高生対象):9:15-9:45
・主日礼拝:10:30-11:30
【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
しばらく、休会いたします。
【主日礼拝ライブ配信について】
※Facebookでの配信がフォロワーの数の関係で、困難になっています。
現在、他の配信方法について検討中です。
3月第1週の礼拝説教
■日 時:2025年3月2日(日)10:30~11:30降誕節第10主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マタイによる福音書14章22~36節(新約P124)
■説教題:「 主よ、助けてください 」
■讃美歌:2(聖なるみ神は われらの集いに)456(わが魂を 愛するイエスよ、)
先週の水曜日2月26日に岩手県大船渡市で山林火災が発生し、本日3月2日(日曜日)の朝もまだ延焼が続いています。2002年以降、国内では最悪の山林火災となっているようです。大船渡市は東日本大震災で500人以上が亡くなったり行方不明になったりし、多くの住宅が押し寄せた津波で全壊しました。今回避難を余儀なくされている方々の中には、東日本大震災後に高台に住宅を移転した方々もおられるようです。やっと住宅を再建し新しい生活に慣れて来た方は、「高いところにきたら次は火事・・・」と嘆いておられました。また、大船渡市の避難所には28日午後、東日本大震災などで医療支援にあたった宮城県の石巻赤十字病院の医師などが訪れ、避難所の環境や避難している人たちの健康状態を確認した様子なども報道されていました。2011年の東日本大震災の時には、医師であるご子息が石巻赤十字病院に勤務しておられたお知り合いがご子息と数日間連絡が取れないので、仙台にいた私に消息を知る手段を尋ねて来られたこともありました。その時は、ちょうどヘリコプターで取り残されている被災者の方を救助しているご子息の映像が放送されたので、そのことをお知らせし、無事であることをともに喜んだ記憶があります。今回の大船渡には、仙台時代からの親しい友人の御実家があり、無事を祈り続けています。
さて、先ほど読んでいただいたマタイによる福音書14章22節から33節は、本日の日本基督教団の聖書日課です。22節は「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。」と始まります。「それから」というのは、直前の段落の内容を受けています。そこには、主イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を満腹させられた話が記されています。主イエスは、5千人に食べ物を与えるという奇跡をなさった後ですぐに、弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられました。主イエスは、そのようにして弟子たちを群衆から引き離されたのです。同じ出来事を記すヨハネによる福音書の6章を見ますと、主イエスのなさった行為の理由が分かります。満腹した人々が主イエスのなさるしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったこと、さらに、人々が主イエスを自分たちの王とするために連れて行こうとしたことが記されています。主イエスのなさった奇跡が、群衆を熱狂させたのです。そのような熱狂に弟子たちが巻き込まれてしまわないように、主イエスは、弟子たちを強いて舟に乗せて、向こう岸へと先へ行かせたのです。しかし御自身は、まず群衆を解散させてから、祈るためにひとり山に登られたのです。主イエスは、山でひとり祈られることにより、父なる神の御心に適う者としての姿勢を整えられたのです。
弟子たちは夕方に舟に乗りこみ、主イエスが現われたのは夜明け頃であったということですから、弟子たちは一晩中逆風のために波に悩まされていたことになります。彼らの乗っているのは、小さな舟です。この舟とは「教会」のことを表している、とよく語られています。私の母教会もかつていた仙台の教会も、教会堂を新築するときに舟をイメージして設計をしてあります。この世の荒波の中を、逆風に悩まされながらも先立つ主イエスに従って進んでいく姿を明らかにしているのです。ところが、この場面での弟子たちの姿を見ると、たとえ信仰をもっている者であっても、不安になり恐怖のあまり叫び声をあげる状況になることがあるということを知らされます。彼らは、イエス・キリストが近くに現われても、それを幽霊だと思ってしまうほどでした。私たちの乗っている小舟もまた、逆風が吹くたびにこの世の波に飲み込まれそうになります。そのような出来事に遭遇すると、それまでの知識も経験も役に立たないということがあります。そういうわけで、夜通し悩み続ける弟子たちの姿、これはまさに私たちの姿そのものではないでしょうか。
しかしそうした中にあっても、主イエスが弟子たちのところへやってきて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃったことが27節に記されています。この「わたしだ」という言葉は、特別な重みを持っています。「私はいる」あるいは「わたしはある」とも訳せます。ヨハネによる福音書のほうは、「わたしだ」という言葉が最初に発せられています。「エゴ― エイミ」という元の言葉は、そこに主なる神が顕現されていると理解することもできます。それほど大きな力がこの言葉に示されているのです。そのときペトロは、主イエスの姿を見て安心したのでしょう。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(28節)と答えました。主イエスはペトロに向かって、「来なさい」と言われました。昔からの有名なジョークですが、教会学校などで生徒たちにこの場面を話すときに、「皆さん、水の上を歩くこつを知っていますか。まずそっと右足を出し、水の上に置きます。そしてその右足が沈む前に、左足をさっと出します。そしてその左足が沈む前に、もう一度右足をさっと出すのです。その繰り返しです」と説明していました。当然のことながら、歩けるはずがなく水の中に沈み溺れることになります。しかし、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、主イエスのほうに進むことができたのです。ところが、強い風に気がつくと、沈みかけてしまいました。けれどもそのとき、ペトロは「主よ、助けてください」と叫びます。すると「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ」てくださったのです。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)と叱責されました。二人が舟に乗りこむと、とたんに嵐は静まりました。この出来事は、マルコによる福音書にも、先ほどからご紹介しているヨハネによる福音書にも記されていますが、マタイによる福音書だけが、ペトロも湖の上を歩いたことを記しています。ペトロは、主イエスなら自分に命令して水の上を歩かせることができると純粋に信じたのだと思います。主イエスの言葉を信じ主イエスだけを見つめていたとき、ペトロは、主イエスと同じように水の上を歩くことができました。しかし、強い風に気が付いたとき、おそらく自分自身の置かれている状況を見てしまったのでしょう。彼の信仰が揺らいでしまったのです。しかし、彼は沈みかけたときにとっさに、「主よ、助けてください」と叫んだのです。私たちも、主イエスを信じて歩んでいます。しかし、様々なことに目を向け心が分かれてしまうと、恐れに苛まれてしまうのではないでしょうか。そこで大切なことは、その沈みかけている中で、「主よ、助けてください」と叫ぶことです。そのように主イエスに助けを求めるとき、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とたしなめられながらも、私たちを舟の中へと引き上げ導いてくださるのです。32節に、「そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」とありますが、主イエスを神の子と告白し、主イエスを礼拝する人々が乗っている舟こそ、教会なのです。私たちは、このように教会に集まって、礼拝をささげておりますが、それは主イエスが沈みかけそうな私たちの手をとって招いてくださったからです。
いよいよ、今週の水曜日から受難節が始まります。「灰の水曜日」という典礼は、元来はカトリック教会で行われていたものでした。前年の「棕櫚の主日」に使用した棕櫚の枝を乾燥させて保存しておき、それを燃やして灰にし「灰の水曜日」に額や頭に受けるようです。それは自分が弱い存在であり、神様の助けを必要としている、悔い改めているということを表す印である、と考えられているようです。私共の立川教会はプロテスタントですから、そのような典礼は行いません。しかし、主イエス・キリストが、私たち一人一人の救いのために十字架にお架かりになって苦しんでくださった受難の出来事を、自分自身のこととして受け止め、イースター(2025年は4月20日)の前日までの40日間(主日は喜びの日なので数えません)、心静かに祈りつつ過ごしましょう。
立川教会牧師 保科 けい子