◆立川教会の定例集会の案内
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6月第5週の礼拝説教
■日 時:2025年6月29日(日)10:30~11:30聖霊降臨節第4主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マタイによる福音書5章13~16節(新約P6~7)
■説教題:「 地の塩、世の光 」
■讃美歌:7( ほめたたえよ、力強き主を。 )509( 光の子になるため、従いて行きます。)
昨日(6/28)の朝日新聞の「多事奏論」というコラムに「詫びる首相 クリスチャンを自認、胸の内は」という記事が掲載されていました。そこで、「著名なクリスチャン・金森通倫(みちとも)のひ孫である首相は4代目の信徒で、大学入学時に日本基督教団鳥取教会で受洗した。」と記されていることに驚きました。石破首相がクリスチャンであることは知っていましたが、そのルーツが熊本バンドの一員として知られている金森通倫であることに驚いたのです。金森通倫と言えば、日本のキリスト教史に出てくる新島襄(同志社大学の創立者)から洗礼を受けており、新島の自他ともに認める愛弟子として知られています。コラムの著者は、石破首相が靖国神社の例大祭に、内閣総理大臣名だが私人の立場で真榊を奉納したことや、お正月に伊勢神宮に参拝したことなどを取り上げ、「クリスマスケーキを食べた翌週に初詣へ行く私に、節操がないと首相を攻める資格はない。だがキリスト者を自認する首相が、胸の内でどう折り合いをつけているのかは気になるところだ。」と述べています。そして、「首相がかつて通った日本基督教会世田谷千歳教会の小林宏和牧師からはこんな話を聞いた。異教の神に捧げられた肉を食べてもよいか。その問いに対し聖書は、食べる自由があるとの見方を示している。『そこに神はいない。異教の神は神でないと考えるからです。ただ、もし傷つく人がいるなら食べない。その愛こそが重要だと教えています』 神社に自分にとっての神はいない。よもや口にはできないだろうが、石破氏にはそんな割り切りがあるのだろうか。」と結んでいます。同様の問いは、私自身もよく聞くものです。例えば、仏式の葬儀に参列してもよいだろうか、いつの間にか地域の神社の氏子になっており、お札などを配布されてしまうのでお金を出さざるを得ないのだが、どうしたらよいか、などです。そういうわけで、昨日は新聞の記事から、自分自身の信仰者としての歩みやキリスト教を信じる方々が、この世の現実とどのように向き合っていくのか、を考えさせられました。
そのような中で、本日の聖書箇所を読み直しました。この短い13節から16節までの段落には、5回、「あなたがた」という言葉が見られ、強調されています。ギリシア語の動詞は人称によって語尾が変化するため、主語が代名詞の場合にはあえて記されていないことが多いです。けれども、日本語の動詞には格変化がないため、原文にはない「彼」とか「あなた」などを補って訳していることがあります。ところが、13節と14節の「あなたがたは」の場合は、本来代名詞を記す必要がないにもかかわらず、著者自身があえて代名詞を補っているのです。では、そのようにして記されている「あなたがた」とはだれかというと、直前の11節で「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と主イエスが呼びかけた人々です。山上で主イエスのそばに集まってその言葉に耳を傾けていた弟子たちであり、彼らを遠巻きにして話を聞いていた群衆でした。そして、5章 13節以下7章23節までは、彼らにあなたがたと呼びかけながら、主イエスの山上の説教が続いています。そのことを考えますと、本日の箇所で「地の塩」「世の光」と記されている人々とは、実は山上の説教の中心である5章3節から11節の中で、語られていた「幸い」に生きている人であるということが見えてくるように思います。
ところで、「地」は現実の世会や社会を意味します。そして、適量の塩分は私たちの生命の維持のために欠かせません。調味料としてはいうまでもなく、防腐剤としても塩は昔から珍重されてきました。そのせいか、多くの文化の中で宗教上の清めの役割も担ってきました。旧約聖書も神殿の供え物には塩を添えるように命じていました(レビ記2章13節)。防腐の働きを持つことからか、ユダヤ人の伝統では、塩はやがて知恵の象徴ともなってゆきました。「塩に塩気がなくなれば」と訳されている部分を文字どおりに訳するなら、「塩がバカになるなら」となります。主イエスはご自分の語る言葉に耳を傾けようと従ってきた弟子たちと、それを囲む群衆に向かって、「あなたがたは地の塩である」と言われます。「あなたがたは地の塩となるだろう」あるいは「地の塩となりなさい」ではないことに注意したいと思います。これは事実の宣言であって将来の姿の予測や命令ではないのです。「地の塩である」というのは、主イエスのもとに集まった「あなたがた」がすでに招き入れられた現状を意味しているのです。繰り返しますが、塩はこの世界に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保ちます。「あなたがた」は、地上でこのような役割をすでに担っていると主イエスは宣言されているのです。大切なのは、その塩味が自分自身から湧き出るものではなく、主イエスに従うことによって与えられているものであるということです。主イエスに従うことなしに、塩は塩味を保つことができません。当時の塩は現代のように精錬されたものではなく不純物を多く含んでいたために、簡単に塩味を失ったり苦みになってしまったりすることもあったのだそうです。そのようにして塩味を失い愚かになるならば、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」だけです。
次に14節の「あなたがたは世の光である。」にまいりましょう。この場合も、主イエスに従う弟子たちは現に世の光であるということを意味します。主イエスに聞き従う者たちが光である根拠は、まことの光である神の子イエスがその人々の中に住み、彼らがいわばコリントの信徒への手紙一3章16節17節に記されているように神の神殿となっているからです。塩としての働きが、どちらかといえば外に向かう働きだとすると、世の光は、隠されずに輝かすことによって人々を引きつける求心力的な働きと言えます。マラリアの多いパレスチナなどでは、町は湿地を避けて丘や山の上に建てられていました。そこにある家々から漏れる光は、暗い中で輝いていますから隠れることができません。また、ともし火をつけてこれを升の下に隠す人はいません。光で屋内が明るくなるように燭台の上に置かれます。16節前半は「このようにあなたがたの光が人々の前に輝きなさい」とも訳せます。これはもちろん自分自身をひけらかすことではありません。あなたがたの光とは、神から託された光、主イエス・キリストです。この光を人々の前に明らかにするかしないかは、光を受けた者一人一人の生き方にかかっています。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と語られたのは、これらの善い業を自分の名誉を求めてではなく、神への感謝と人々とのつながりの中で、真心こめて行うように勧めておられるのだと思います。
日本のキリスト教主義学校のいくつかは、建学の精神、あるいはスクールモットーとして、「地の塩、世の光」であることを掲げています。そこで学ぶ多くの青年たちが、主イエスから与えられる十字架の血潮によって味付けられた「塩」と、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8章12節)とお語りになった主イエスの光をいただいて、この世界に羽ばたいていくことを願っているのでしょう。それには納得がいくけれども、私たちの多くは青年時代を通り過ぎてしまったと思うかもしれません。しかし、いつでも「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である。」という主イエスの呼びかけに聴き従うことができるなら、私たちもまたこの世に羽ばたいていくことができるのではないでしょうか。
立川教会牧師 保科 けい子