◆立川教会の定例集会の案内
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8月第5週の礼拝説教
■日 時:2026年8月30日(日)10:30~11:30聖霊降臨節第15主日
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マルコによる福音書12章28~34節(新約P87)
■説教題:「 最高の道 」
■讃美歌:55 ( 人となりたる 神のことば、)504( 主よ、み手もて ひかせたまえ、 )
最近は、説教の最初に先週のことを振り返ってお話しするようになりました。けれども、先週は、心が定まらないほどに様々なことが重なって疲れてしまいましたので、週報の【牧師室より】を引用しておきます。一つ目は、8月24日(月)に夫と二人で夫の姉の「見送り」をしたことです。最後に病院に入院するまで教会の近くの「ホーム」で手厚い介護を受け、平安な晩年を過ごすことができたと思います。主なる神様のお支えを感謝いたしました。二つ目は、先週の27日(木)の朝に、石川県と富山県に「レベル5大雨特別警報」が発表されたことです。かつて住んでいた富山県高岡市も一瞬映像に出て来ました。今回は隣接する氷見市が大変な様子です。おそらく、これまで大雨の被害などなかったので昔ながらの商店街が残っていたのでしょうが、その街が濁流に襲われているようでした。高岡教会員も住んでおられるはずなので、主なる神様のお支えとお守りを祈っております。
ところで、本日の聖書箇所を一言でまとめてしまえば、主イエスが最も重要な掟として示されたのは、「主なる神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」ということになります。このことから、私は少しだけ関わったことのあるキリスト教主義の学校のスクールモットーを思い出しました。「福音主義キリスト教に基づいて学校教育を行い、神を畏れ敬い、自由かつ謙虚に真理を探究し、隣人愛に立ってすべての人の人格を尊重し、人類の福祉と世界の平和に貢献する女性を育成すること」という建学の精神を受けて、「神を畏れ、隣人を愛する」をスクール・モットーとしていました。少しだけ本日の聖書箇所と異なるのは、最初の言葉が「神を畏れ」になっていることです。この言葉は、旧約聖書の箴言の9章10節の「主を畏れることは知恵の初め」が出典となっており、後半の「隣人を愛する」は、本日の聖書箇所であるマルコによる福音書12章31節の「隣人を自分のように愛しなさい」が出典となっています。このスクール・モットーについて、入学してきたばかりの中学1年生の礼拝で、ある先生が十字架の形を用いて話されました。「十字架というのはキリスト教のしるしであるが、まず長い縦の棒が大事である。それは天の父なる神様と地にある私たちの縦の関係を表しているからだ。そして、その縦の関係がしっかりとできたところで、次に私たちの横の関係ができて来ることをこの学校にいる間にしっかりと身に付けてほしい。」とまとめられたのです。そのことが、今も懐かしく思い出されます。
さて、本日の箇所の28節にまいりましょう。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた」とあります。「彼らの議論」と言われているのは、その前の段落の主イエスとサドカイ派の人々の復活をめぐる議論です。主イエスが聖書に基づいてはっきりと死者の復活をお語りになったのを聞いて、律法学者は、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」ということを尋ねたのです。律法学者は、旧約聖書を中心とした律法、すなわち神の掟を研究し、自分自身がそれを守るだけでなく、一般の人々に律法を守って生活するためのアドバイスをしていました。当時の掟は六百以上あったそうですから、教えるのも大変だったことでしょう。ですから、彼が主イエスに問うた「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」というのは彼にとって重要な問いでした。彼ら律法学者たちはそういうことをいつも議論していたでしょう。ですから、サドカイ派に対して聖書についての深い理解をもって的確にお答えになった主イエスの言葉を聞いて、彼は真剣に、この人は律法の中心は何かという問いにどう答えるだろうか、と考えたのでしょう。
本日の聖書箇所の最後である34節を見ますと、「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。』とありますから、この律法学者の問いは、これまで主イエスの言葉尻を捉えて陥れようとしていろいろなことを問うてきた人々の問いとは異なって、真面目で本心からのものだったのでしょう。彼は、神の民が神の掟に従って生きるという信仰生活において最も大事にすべきことは何かと、主イエスに真剣に尋ねたのです。ですから、主イエスもはっきりとお答えになりました。29節,30節です。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」。主イエスが挙げておられるのは、申命記第6章4節,5節です。そこも読んでみます。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」。この箇所は、当時のイスラエルの人々が誰でも暗記していて、毎日の祈りにおいて唱えていた言葉であると言われています。冒頭の「聞け」という言葉は、原語のヘブライ語では「シェマー」と言います。そこから、これは「シェマーの祈り」とも呼ばれています。主イエスは、このユダヤの人々が誰でも毎日唱えている言葉における「主なる神の命令」を、あらゆる掟のうちで第一のものとされたのです。この第一の掟は一言で言えば「神を愛しなさい」ということです。神様を愛することこそが、あらゆる律法の要であり神の民としての生活の中心だ、と主イエスはおっしゃったのです。しかし、その掟の前提として29節で記されている、「わたしたちの神である主は、唯一の主である」ということが重要なのです。言い換えれば、主なる神様はただ一人の神であられる、ということがこの第一の掟の前提なのです。これは、神様はこの世にただ一人しかいない、と言っているのではありません。「わたしたちの神である主は」ただ一人だと言っているのです。ですから、それは、「わたしたち」との関係において言われているのです。私たちが信じ礼拝する神はただお一人であり、私たちはその唯一の神との交わりに生きるのだ、ということなのです。そして、そのただお一人の神との関係は「愛する」ということだと言っているのです。このように、主なる神様との間に「愛する」という関係を持って生きることこそ、十戒を始めとする神の律法すなわち掟が教えている神の民のあり方の中心なのです。この関係が打ち立てられているならば、細かい掟に縛られることなく、神様との関係において私たちは生きることができるというのです。そういうわけで、主イエスは「神を愛すること」を第一の掟とされたのです。先ほどの十字架の形の縦棒と横棒との関係も、主なる神様から垂直に示された愛に応えて私たちも主なる神様を愛することを示しているのです。決して、下から上へという向きにはなっていないのです。
この神を愛することにおいて、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」と、主イエスは語られています。原文を直訳すると「あなたの心の全てから、あなたの精神の全てから、あなたの思いの全てから、あなたの力の全てから」となります。「尽くし」というのは、「全身全霊をもって」ということです。また、それぞれの勧めに「あなたの」という言葉があります。他の誰でもなく「あなたの」心、精神、思い、力の全てをもって主なる神を愛しなさい、と言われているのです。私たちは自分のある一部分においてではなくて、全てをもって神様との交わりに生きるのです。言い換えれば、神様は私たちの全存在をもっての交わりを求めておられるのです。申命記には「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」と三つのものが挙げられていました。ところが主イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」と四つのものを挙げておられます。「精神」は申命記における「魂」に当たりますから、そのように言い換えられたうえで、主イエスは「思いを尽くして」をつけ加えておられるのです。この「思い」というのは、人間が思い、考え、理解する、そういう理性的な働きを指す言葉です。これを付け加えることによって、主イエスは私たちに、理性の働きの全てをもって主なる神様を愛しなさい、と教えておられるのかもしれません。そのように考えると、信仰に生きるということは、理性を捨てて考えることを止めることではないのです。科学と宗教という関係がよく議論されますが、キリスト教においてはそれらは決して相反するものではない、ということが分かります
主イエスは律法学者の問いに答えて、第二の掟をもお語りになりました。それは第一と第二とが切り離すことのできない一体のものであるからでしょう。その第二の掟とは「隣人を自分のように愛しなさい」です。これは、旧約聖書のレビ記第19章18節です。そこには「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。神様を愛することと隣人を愛すること、この二つが分かち難く結び合って、律法の中心、すなわち信仰の要をなしているのです。それは、神を愛することは隣人を愛することを離れてはあり得ない、ということでもあるでしょう。その場合の隣人とは、自分の好きな人、好意を持っている人だけではありません。もともと好きな人を愛することは、自分の思いの通りにしているだけですから、それは神様への愛と比べることなどできません。自分にとって好ましくない人、好意を持てない敵対関係にある人というのは、神様がその人を自分の前に置き、その人を愛することを求めておられるという状況です。そのような中で、信仰のゆえに愛していくことになります。そこにおいて、神を愛することと隣人を愛することとが一つとなるのです。
私たちは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」、主なる神様を愛しているでしょうか。神様を愛していると思っても、それは神様が自分の思い通りに動いて下さる時だけなのではないでしょうか。また私たちは、隣人を真実に愛しているでしょうか。到底赦し得ない人を赦すことこそが、隣人を自分のように愛することです。私たちはそのような赦しに生きることが出来ているでしょうか。それらのことを振り返って見るなら、私たちは自分が神様の求めておられることからいかに遠く離れているかを思い知らされます。そして、自分の努力によっていくら頑張っても、その遠さを少しでも縮めることはできないことを認めざるを得ないのです。本日の箇所を読むと、そのことに気づかされて、いかに自分自身がみ言葉を読んでいないか、主なる神様の下にひざまづいていないかということを自覚させられるのです。しかし、本日の聖書箇所では、そのようにみ言葉を頭でしか捉えていない律法学者に、主イエスは「あなたは神の国から遠くない」と言って下さいました。この「遠くない」は、彼の理解がもう少し深まれば神の国に到達できる、ということではないはずです。そうではなくて、今、あなたの目の前には私がいる、私があなたに語りかけている、その私を信じ私に従って共に歩もうとすることがあなたに欠けているのであって、それができるならばあなたは神の国に到達することができる、と主イエスは言っておられるのではないか、と思います。主イエス・キリストは、神がその全存在をかけて私たちを愛して下さっていることを私たちに知らせるために、遣わして下さった主なる神の独り子です。神ご自身が私たちに先立って、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛して下さった、その愛の現れが主イエス・キリストなのです。その愛は、私たちの全ての罪を背負って主が十字架にかかって死んで下さることによって、私たちを赦して下さる愛です。全存在をあげて神を愛することのできない私たちを、神が先立って、独り子イエス・キリストによって徹底的に愛して下さったので、私たちもまた、主イエスに依りすがりつつ、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛し」ていくことができるのです。また隣人を真実に愛することができるのです。それこそが、私たちに与えられた「最高の道」なのだと思います。
立川教会牧師 保科 けい子
