◆立川教会の定例集会の案内
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5月第1週の礼拝説教
■日 時:2026年5月3日(日)10:30~11:30復活節第5主日
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:ヨハネによる福音書15章1~11節(新約P198~199)
■説教題:「 豊かに実を結び 」
■讃美歌:9 ( わが身にたまいし 神の恵み、)393( こころを一つに 平和を求め、)
牧師館の庭に青い実のなるぶどうの木があります。夏の間は日陰になるように棚もしっかりできています。しかし、その実は良い香りがするのですが、自然に枝から落ちるぐらいまで熟成させても酸っぱく苦みもあるので食べられません。非常に良い香りがするので、小鳥たちが来て食べるかと思えば、その実はあまり美味しくないということがわかっているのか、あまりやってきません。来るのはスズメバチとかアシナガバチとか、そういう類のものです。ジャムやジュースにしようとしても緑色のままなので作ったことはありません。そして、柿の実や金柑の実などを狙ってやってくる鳥たちも、ぶどうの実にはほとんど近づきません。困るのは、枝をはる力が非常に強く、4月になってからは週に2回は燃えるごみの収集に出すために剪定をしています。それをしないと、いつの間にか屋根の下に入り込んで建物をいためてしまうので気を付けています。このぶどうの木を見ていると、いつも思い浮かぶ聖書の言葉があります。旧約聖書のイザヤ書5章1節から7節です。旧約聖書では、主なる神様を信じるイスラエルの民はぶどうの木にたとえられている場合があります。この箇所では、神様が「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた」と歌われています。それなのに良い実を結ばず、酸っぱいぶどうを実らせてしまったのです。そのため、主なる神様はそのぶどう畑「イスラエルの家」と植えられた「ユダの人々」を「見捨てる」と言われるのです。
主イエスが「わたしはまことのぶどうの木」 とお語りになったとき、1節では特に「わたしの父は農夫である」とお語りになっていますから、おそらくこのイザヤ書の御言葉が背後にあるのではないかというふうに私は思っています。つまり主イエスは、私こそは酸っぱい実をつけるぶどうの木ではなく、主なる神のみ心にかなうまことのぶどうの木である、と15章の最初に宣言なさっているのでしょう。そして、私たちにより身近な御言葉は5節の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」だと思います。昔からこの譬えは、主イエスを中心とした教会に集う一人一人の姿が、分かりやすく語られていると言われてきたようです。1節も5節も、元の言葉では、「エゴーエイミ」と書き出されています。「私は・・・である(I am・・・)」という言葉なのですが、以前から何度かお話していますように、この言葉は、まさにそこに主なる神が顕現なさっているということを示す言葉でもあるのです。私たちは今、この御言葉をこの礼拝で聞いた時、本当にこの場に主なる神が親しく臨んでおられるということを心から信じて礼拝しているだろうか、と問われるところです。
2節では、「わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と語られています。ここを読んでいて、手入れをなさるというのであれば、非常によく実るような木や枝は、もうすでに十分手入れがなされているのだから、実を結ばないようなあるいは痩せ細ってしまっているような、そういう枝を豊かに実を結ぶように手入れをしてくださるのではないかと思うのですが、今日の御言葉は、「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」と主イエスが語っているのです。それがとても不思議であると思います。さらに6節では「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」とも語られています。この二つの箇所は、まさに先ほどお話ししたイザヤ書の御言葉を、主イエスがご自身のこととして語っておられるように思います。そのように受け止めますと、私はいつも主イエスにつながっていると思い他の人にもそのように語っているけれども、実を結ばない枝は神様が取り除いてしまわれると言うのであれば私は大丈夫だろうかと、本来ならば背筋を正して読まれなければならない箇所だ、と思わせられるのです。
こどもさんびかの中に、
「主イエスは まことのぶどうの木
わたしは つながる小枝です
あふれるいのちを いただいて
わたしは 大きくそだちます」と、歌い出すものがあります。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」という御言葉を、広々とした田園風景の中で、青々として美しく茂っているぶどう畑というイメージだけで捉えてしまっているならば、あまり厳しい感覚はわきあがってこない箇所でもあるのです。
2節では
「ちいさなぶどうは 幹なしに
大きなふさには なりません
そだてる神さま 手入れして
みのらぬ小枝を 切りすてる」ときちんと聖書の内容を踏まえて歌われています。
その上で、3節では
「主イエスは まことのぶどうの木
わたしは つながる小枝です
しっかり 主イエスに つながって
りっぱなぶどうに なりましょう」と歌われており、
本日の聖書箇所ヨハネによる福音書15章5節の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」を踏まえているような結びになっています。 そのように見てまいりますと、本日の聖書箇所は、主なる神様の選び、言い換えれば、主イエス・キリストによる選びがはっきりと示されているといえるのです。本日の箇所の少し先の16節には 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、 わたしがあなたがたを任命したのである。」と語られています。クリスチャンになった多くの人たちが、自分自身を主なる神様がお招きくださったことを、この御言葉によって実感したと証する箇所でもあります。そのことを、すでに本日の聖書箇所4節では、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、 自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、 実を結ぶことができない。」と言われているのです。私たちの多くは生まれながらにキリストの枝であったのではありません。主イエスの招きによって、キリストの枝とされたのです。ですから、自分自身の力では実を結ぶことは出来ないのです。
今朝のジュニア礼拝でも話したことですけれども、本日の聖書箇所を1節から10節まで続けて読んでいきますと、同じような言葉が何度も出てきているのに気づかれると思います。もちろん、ぶどうの木は出てきますが、それ以外に、一つは「わたしにつながっていながら」の「つながっている」です。もう一つは、「いよいよ豊かに実を結ぶ」の「実を結ぶ」です。そうすると、この2つの言葉が、この15章の1節から10節の間では繰り返し語られることによって、主イエスが何を本当にお語りになりたかったかということが、なんとなく見えてくるような思いがいたします。そして、実は,同じ言葉でありながら、だんだんに日本語の訳が変わっている言葉があります。その言葉は少なくても、7節までは「つながっている」あるいは「つながっていなければ」と訳されています。しかし、9節になりますと訳が変わっています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」この中に「つながっている」という言葉が実は入っているのです。この箇所では「とどまりなさい」と訳されています。つまり、主イエスに私たちがつながるということは、それは主イエスの愛にとどまるということと同じだということが語られていると思います。そして10節では、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように」と、まず,主イエス・キリストが父なる神との関係の間で、父なる神から示された掟を守り、その神様の愛にとどまっているように、「あなたがたもわたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」とお語りになっています。つまり、主イエスご自身が高みに立って、「あなたたちは私の掟を守りなさい」「私の愛にとどまっていなさい」と私たちに命令調で戒めを語るのではないのです。そうではなくて、「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた、だから、私の愛にとどまりなさい」と言われるのです。「つながる」という言葉がやがて「とどまる」と訳し直されているように、主イエスの御言葉に従うことによって、私たちの歩みが変わってきているということでもあるのです。主イエスは、「わたしにつながっていなさい」と繰り返しお語りになっています。「つながる」というと、私たちが主イエスにしっかり掴まっているようにも思えますが、そうではないのです。 主イエスの内に捉えていただいているのです。主イエスが私たちを御自分の内に捉えて下さって、「 わたしの内に留まっていなさい」 と語りかけてくださっているのです。
そして、本日の聖書箇所の結びは11節です。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」、「わたしの喜び」と主イエスは語っておられます。もう何度も言ってきたことですが、ヨハネによる福音書の13章から17章は、主イエスが最後の晩餐を弟子たちと共にしておられる場面が描かれています。そういう場面で語られている御言葉が本日の聖書箇所なのです。13章で洗足の出来事が語られていることに象徴されているように、私たちを愛して私たちのために命を捨てて下さることを、主イエスは喜んでなさろうとしておられるのです。そして、主イエスの喜びが私たちの内にも満たされ、私たちも心から喜んで生きる者となることを願っておられるのです。この御言葉をある方は「この約束は、神の民に与えられた祝福そのものです。」と語っておられます。私たちもまた、その祝福を受け、主イエスに結ばれ、主イエスにつながり、主イエスの愛に留まらせていただく者として招かれていることを信じたいと思います。
お祈りをします。
主なる神様、今は連休に入っておりまして、本日の5月3日(日曜日)も、日本中の多くの人たちが行楽のために大移動しています。そのような時にも、私たちは主イエスの招きに応えて主の御許に集い、礼拝を捧げています。主の日ごとにあなたの御言葉に聞きその御言葉に従って歩む、という生き方を選んでいます。私どもの歩みが本当にあなたの確かさの内にあり、また主イエス・キリストの愛の内に留まるものとして続けられていきますように。今日ここに集い得なかった一人ひとりの上にもあなたの祝福が豊かにありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。
アーメン
立川教会牧師 保科 けい子
