お知らせ

10月も終わり、来週は11月です。
今年は、新型ウイルス・コロナの問題で始まり、収束を見ないまま1年が過ぎて行きそうです。
来週の主日は、召天者記念礼拝です。
すでに御許(みもと)に召された先達らの信仰の足跡に思いを寄せ、自分自身の人生を振り返る時ともなります。
昼間の礼拝に続いて、午後2時から立川教会の墓地のある第二高尾霊園で墓前礼拝を行います。

主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法

https://www.facebook.com/tachikawachurch/live

にアクセスします。
(お気に入り登録をしておくと、その都度URLを入力しなくも済みます。)

※Facebookユーザーでなくても、礼拝の視聴は可能です。
※Facebookユーザーでない場合、「ログイン」または「新しいアカウントを作成」の画面表示が出ますが、ログインや新しいアカウントを作成しなくても視聴することができますので、無視して問題ありません。
※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。

 ◆今週の聖書日課(10/26-10/31)【日本基督教団「日毎の糧」(2020)から転載】

 10/26(月)【ヨセフが見た夢】創世記37:1-11詩編35編
ヨハネによる福音書1:1-18

 10/27(火)【兄たちのたくらみ】創世記37:12-24詩編36編
ヨハネによる福音書1:19-34

 10/28(水)【ヨセフ、エジプトへ行く】創世記37:25-36詩編37:1-22
ヨハネによる福音書1:35-51

 10/29(木)【ポティファルの家で】創世記39:1-6詩編37:23-40
ヨハネによる福音書2:1-12

 10/30(金)【ヨセフ、監獄に入る】創世記39:7-23詩編38編
ヨハネによる福音書2:13-25

 10/31(土)【宮廷の役人たちの夢】創世記40:1-23詩編39編
ヨハネによる福音書3:1-21

◆11月第1週の礼拝予告(召天者記念礼拝)
■日時:2020年11月1日(日)10:30-11:30
■場所:立川教会
■説教題:「信仰を守り抜き、神の御手の内にある人々。」
■聖書:テモテへの手紙二第4章1節-8節
■讃美歌:513「主は命を」、510「主よ、終わりまで」

◆墓前礼拝
■日時:2020年11月1日(日)14:00-14:30
■場所:第二高尾霊園(八王子市南浅川町3079)京王線高尾山口駅下車徒歩20分

◆10月第4週のメッセージ
■日時:2020年10月25日(日)
■場所:立川教会
■説教題:「まだ、分からないのか。心がかたくなになっているのか。」
■聖書:新約マルコによる福音書8:1-26(新p76)
■讃美歌:241「来たりたまえ」・536「み恵みを受けた今は」

お早うございます。

一気に秋が深まって来ました。

長かった梅雨、猛暑の日々が続いた夏、そして秋の訪れです。

ニュースによれば、今年の冬は厳しいとのこと、地球温暖化が言われる中で、かつての昔のような冬の寒さに戻るのでしょうか?

私は東京生まれの東京育ちですが、幼かった頃、朝目が覚めて布団の中から窓の外を見ると、軒下に氷柱(つらら)が垂れていたことを思い出します。夜眠る時の湯たんぽは必需品でした。冬、皆様はどのような思い出があるのでしょうか?

それでは、今日与えられた聖書の御言葉を見てまいりましょう。

今日の箇所は、読んでいてとても辛い箇所です。

弟子たちの、イエス様に対する無理解が語られ、それに対するイエス様の嘆きの言葉が繰り返されるからです。

説教題にも用いましたが、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」

そして、ダメ押しのように、「まだ悟らないのか」です。

何か、全面否定されているようです。

弟子たちの愚かさがあからさまに語られ、その愚かさをイエス様に責められています。

しかし、このような厳しい言葉を弟子たちに投げかけられたイエス様ですが、ある注釈者が記しているように、それでもこれらの言葉には希望があります。

それは、「まだ、分からないのか」「まだ悟らないのか」との言葉です。

「まだ」と言う言葉には、いつの日か分かる時が来るとの、イエス様の弟子たちに対する期待の意味が込められています。

今は分からなくても、いつかは分かる時が来る。この言葉に、私たちも又救われるのです。

マルコによる福音書8章1節から3節を読みます。

1:そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。

2:「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

3:空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」

イエス様を追って来た群衆が、食べ物も取らずに、イエス様と共に3日も一緒にいます。この事実から教えられることがあります。

イエス様の語られる言葉が、日々の日常に疲れ果てていた人々の心を、どれほど慰めたことか、安らぎを与えたことかです。

人々は、空腹を覚えつつも、それを満たす以上に、精神的な飢え渇きが満たされることを望みました。そして、イエス様はその求めに応え、だからこそ、3日と言う時が経ちました。

6章の5,000人にパンを与えた時は、弟子たちが群衆の食事のことを心配してイエス様に尋ねますが、今日の箇所では、イエス様ご自身が群衆のことを心配しています。

4節から10節です。

前回の時と同じ問答が繰り返されます。

弟子たちには不可能と思われたことを、イエス様が成し遂げるのです。

4:弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」

人里離れた、つまり、村から遠く離れた所です。

どのようにしてパンを手に入れるのか、弟子たちには理解出来ませんでした。

それに対するイエス様の問いかけです。

5:イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。

6:そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。

7:また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。

6節の感謝の祈りと7節の賛美の祈りです。

私たちが行っている聖餐式の原型です。

そして、結論に至ります。

8:人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。

9:およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。

10:それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

この4,000人への供食の場面に居合わせた弟子たちは、先の5,000人への供食の時のことを思い出したに違いありません。彼らはこの時、何を思ったのでしょうか。

このお方、イエス様への驚きであり、そして畏れ・・・。

それだけでしょうか?

もし、私たちが、私が、その場に居合わせたら、何を思ったかと考えるのです。

この供食の場面を経験して、自分は何を思うのだろうかと考えるのです。

そして、その後に、一体自分はどうするのだろうと考えるのです。

ところで、10節にあるダルマヌタですが、この地名の場所がどこかは良く分かっていません。

場面は変わります。敵対者であるファリサイ派の人々が登場します。

11節から13節です。

11:ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。

12:イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを

欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

13:そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

ファリサイ派の人々がイエス様に求めたのは、「天からのしるし」、即ち、奇跡を行う者としてではなく、神様から遣わされていることの証明でした。しかし、これに対しイエス様は、12節「心の中で深く嘆」くのです。

信無き者に、たとえどのようなしるしを与えても、彼らはそれを受け入れることが出来ないことを知っていたからです。

故郷のナザレでもそうでした。身内の者もそうでした。

信仰無き人々にとって、イエス様を神から遣わされた者として受け入れることが出来なかったのです。そして、そこでは力ある業を行うことが出来ませんでした。

「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

信仰無き世界に、しるしは与えられません。

そして又、信仰は、どれだけ力ある業を見ても、それによっては与えられないのです。

ただ、神様の導き、即ち聖霊による導きによってしか、信じる心は与えられることはありません。

14節から21節、ここで信仰無き者達の姿が明らかにされます。

14:弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

15:そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。

16:弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。

17:イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。

18:目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。

19:わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。

20:「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、

21:イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

イエス様の問いかけと、弟子たちの応答が、まるで噛み合っていません。

弟子たちには、イエス様が何を問題にされたのかが分からないのです。

弟子たちは、これまでマルコが記して来たように、イエス様が行った数々の奇跡の目撃者

でした。汚れた霊に取りつかれた男(1章・5章)や重い皮膚病を患っている人(1章)を癒やした時にも、中風の人(2章)や手の萎えた人(3章)を癒やした時にも、その場にいました。イエス様が湖の嵐を静め(4章)た時や5,000人の供食を行い、今また4,000人の供食を行った時は、彼ら自身がまさに当事者でした。

にもかかわらず、彼らの目は開かれなかったのです。

イエス様の力ある業を何度その目で見ても、さらには、その業が成された当事者であっても、イエス様が神様から遣わされたお方であることを知ることは出来ませんでした。

最初、イエス様が弟子たちに語られたのは、ファリサイ派の人々とヘロデのパン種についての注意でした。イエス様を攻撃する彼らの言葉は、パン種のように、ますます膨れ、広がって行く。しかし、それに惑わされてばならないと言うことでした。

しかし、弟子たちは、この注意を、食事のためのパンを用意してこなかったことを咎められとしか理解出来ませんでした。供食に対する奇跡を目の当たりにしたにもかかわらず、パンが一つしかなかった事にこだわったのです。

つまり、イエス様がなされた奇跡の業が教えたこと、必要な時に、必要な物は全て備えられることを、弟子たちは信じることが出来ませんでした。その力をイエス様が神様から与えられていることに対し、「目があっても見え」ず、「耳があっても聞こえな」かったのです。「まだ悟」ることは出来ませんでした。

そして次に、マルコは22節から26節の話しを紹介します。

弟子たちの無理解に対比させているかのようです。

ガリラヤ湖の北の端の町、ベトサイダで起きた出来事です。

22:一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。

ある注釈者が強調していたように、イエス様が力ある業を為される時、多くの場合、その人をイエス様のもとに連れて来る人々のことが記されています。これらの助け手があってこそ、彼や彼女は癒されます。この時もそうでした。人々が、1人の目の見えない人をイエス様のもとに連れて来たのです。

23:イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何が見えるか」とお尋ねになった。

24:すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」

マルコが記しているこの目の見えない人への癒やしは、2段階に分かれています。第一段階では朧(おぼろ)げながら見え始めた様子が記されます。そして、

25:そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。

第2段階で、はっきり見えるようになりました。

イエス様はこの人に命じます。

26:イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

このような力ある業が公になることを出来るだけ避けたいとの思いからです。

人々の願いには応えました。

本当に癒しを必要としていたからです。

しかし、彼らの多くは、イエス様が神様から遣わされたお方であることが理解することは出来ないことを知っておられました。

単に力ある業を行う者として世に知られることは、イエス様が神様から遣わされた真実の意味とは遠いものです。飼う者のない羊のような人々の姿に心を砕きつつ、人々の願いに全身全霊をもって応えるイエス様です。そして神様から与えられた使命に向かって、十字架への道を一歩一歩前に進まれるイエス様を思います。

このような歩みを、少しでも理解する者をイエス様は求めていました。

しかし、今なお、最も身近にいて寝食を共にしている弟子たちさえも、イエス様を理解することは出来ませんでした。

私を含めて、私たちの多くは、人生の長い旅を続けて来ました。

今も、続けています。

その時、自分と言う人間を理解する人が一人でもいれば、一人でもです、何と言う豊かな、満ち足りた、そして安らぎに満ちた心の平安が得られるかと思います。

何か人生は、ふと、自分を理解する人を尋ね求めての旅のような気もするのです。

私たちの司式者の一人の方が祈りで用いられるアッシジのフランシスの祈りに次の言葉があります。

「やみに光を

悲しみのある所に喜びを

慰められるよりは慰めることを

理解されるよりは理解することを

愛されるよりは愛することを」

この祈りをわが祈りとし、真実にそのような者となりたいと思います。

そして、主イエス・キリストが神様から与えられた使命の、その意味を、即ち、キリストの十字架と復活は、他の誰でもない、この私のためのものであることをしっかりと心に深く覚える者となろうではありませんか。

祈りましょう。

2020年10月28日(水)
立川教会牧師飯島信

10月第3週のメッセージ

■日 時:2020年10月18日(日)
■場 所:立川教会
■説教題:「神様の愛に包まれて」
■聖 書:新約 マルコによる福音書 7:24-37(新p75)
■讃美歌:157「いざ語れ、主の民よ」・436「十字架の血に」

お早うございます。

秋の訪れです。

身体が慣れていないせいか、今朝などは冬の訪れかとさえ思わせるほどでした。

新型コロナウイルスの感染の広がりは収まらず、ヨーロッパでは、第一波よりさらに感染者数が拡大した第二派が到来しています。私たちも油断することなく、感染対策をしっかり講じると共に、コロナ禍に倒れ、あるいは困窮している方々のことを覚え、少しでも出来ることを探して行きたいと思います。

先週の木曜日は、お知らせしましたように、Aさんの葬儀を行いました。立川教会の関係者でもなく、見ず知らずの方の葬儀を行うのは初めてのことでした。

しかし、Aさんが不慮の事故に遭われたことを知ってから約1ヵ月の短さであるにもかかわらず、ご家族のお一人おひとりをこれほどまでに親しく感じることが出来るとは、私は全く予想すら出来ませんでした。

初めに、そのことについてお話ししたいと思います。

私たちが死を考えるにあたって、大切なことだと思うからです。

Aさんが事故に遭われたことを知ったのは、9月10日(木)のことでした。

ご長男のBさんから、教会に祈らせて欲しいとの電話があったことが始めです。

突然の、見ず知らずの方から祈らせて欲しいとの電話などは、滅多にありません。

戸惑いながらも教会に来ていただくことにし、事情を伺いました。

そして、分かったことは、

  • Aさんは、不慮の事故に遭い、現在病院の集中治療室にいること。
  • 意識が戻らないこと。
  • 教会で幼児洗礼を受けているので、もし亡くなった時には、教会で葬儀を行いたい事でした。

そして、驚いたことに、ご子息のBさんは、私も良く知っているキリスト教主義学校の卒業生で、しかも、昨年のクリスマス・コンサートで演奏していただいたグループの指揮をされていた先生が、彼の担任であったことです。

見ず知らずの関係から、一挙に距離は近くなりました。

しかし、私が彼のご家族に深い関わりを覚えたのは、このことが主な理由ではありません。

それは、Aさんが召された翌11日午後の納棺式から葬儀までの足かけ5日間に、ご夫人のCさん、長男のBさん、そのお連れ合いのDさんの悲しみに耐えている姿を知ったことです。

礼拝堂に安置されたAさんに会うために、Cさん、Bさん、Dさんは、毎日教会を訪れ、2時間も3時間もAさんに呼びかけながら過ごされていました。

これほどまでにご家族から愛されていたAさんとは、どのような方であったのかと思わずにはいられませんでした。

ご長男のBさんから知らされたAさんの横顔です。

・1963年に生まれ、幼児洗礼を受ける。

・1987年、Cさんと結婚。

・1989年、長男のBさん誕生。

・1991年、長女のEさん誕生。

・そして、2020年10月10日、逝去。享年57歳。

しかし、何よりも私の心を打ったのは、ご家族からの【父親としてのAさん】への一言でした。Aさんは、「毎週末、昭和記念公園で、障がいのあるEさんのために歩行訓練に励んでいた。昨年末のBさんの結婚式では、記憶に残る素晴らしいスピーチで会場を盛り上げた。妻にとってはなんでもしてくれる優しい夫であり、2人の子どもにとっては最高の父親であった」と言うのです。

私は、この横顔に書かれていた「毎週末、昭和記念公園で、障がいのあるEさんのために歩行訓練に励んでいた。昨年末のBさんの結婚式では、記憶に残る素晴らしいスピーチで会場を盛り上げた。妻にとってはなんでもしてくれる優しい夫であり、2人の子どもにとっては最高の父親であった」との言葉を読んだ時、まさにAさんは、神様から彼に与えられた走るべき行程を走り終えたのだと思いました。

まだ57歳です。

これから何十年もの人生が残されていたはずです。

しかし、神様がAさんを必要とされ、神の国に招かれました。

そして、今、Aさんは神様と共にいらっしゃいます。

先週の日曜日の午後、Aさんと初めて対面しました。

稀に見る安らかなお顔でした。

この世の旅路を終え、今は神様の懐に抱かれている安らぎに満ちたお顔でした。

私たち人間の存在は、霊と肉とから成り立っています。

肉なる体は、朽ちて滅びます。

一方、霊なる体は、肉体は滅んでも、神様の御許に引き上げられて行きます。

そして、終わりの日に甦り、永遠の命へと導かれて行きます。

神様の御心は図り知れません。

なぜ今Aさんを呼ばれたのかとの問いが生まれます。

なぜ今なのか、私たちには分かりません。

しかし、神の国では、Aさんを迎え入れる用意が出来ていました。

そして、Aさんは神様に呼ばれました。

たとえ今は分からなくても、必ず分かる時が来ます。

なぜこの時であったのかが分かる時が訪れます。

この悲しみの時を経て、神様が残されたご家族お一人おひとりに、何を語り、どこに導こうとされているかが、必ず分かる時が来ます。

その時まで、私たちは、それぞれに与えられた道を一生懸命に歩き続けるのです。

葬儀の告別説教では、ヨハネによる福音書 第14章1-3節とテモテへの手紙二 第4章6-8節を読みましたが。後者のテモテへの手紙をお読みして、Aさんに関わる報告を終わります。

「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」

それでは、今日与えられた聖書の御言葉を見てまいりましょう。第7章24節から30節です。

24:イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。

25:汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。

26:女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

27:イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

28:ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」

29:そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。

30:女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

先週の水曜日の聖書研究の時のことです。参加者のお一人が、イエス様とこの女性とのやり取りを読んで、イエス様は異邦人の女性に対して何か冷たいように思うとの感想を述べておられました。確かに27節の言葉はその通りです。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

ここで言う「子どもたち」とはユダヤ人であり、「子犬」とは異邦人の子どもを指して言われています。つまり、異邦の民であるギリシア人の女性の願いに対して、その子を癒やすより先に、神様から与えられた「パン」、即ち「癒しの力」は、まず同胞であるユダヤ人のために用いなければならないと言われました。

明らかに、ユダヤ人と異邦人を区別しています。問題ある言葉のように聞こえます。

ただ、私たちがこの箇所で注目したいのは、この女性がイエス様に返した言葉です。

28節、

28:ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」

驚くべき言葉でした。

イエス様が明らかにご自分の力はユダヤ人のために用いなければならないと言ったにもかかわらず、女性は、その力は異邦人のためにも用いられて良いのだと言い返します。

28節の「パン屑をいただく」とは、卑屈な言葉のように聞こえますが、そうではなく、事実として、パンの例えを出したイエス様が、それ以上弁明出来ない言葉をもって投げ返しました。「食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただ」くと。愛する娘を思うその思いによってこそ、女性に生まれた言葉の機知でした。

それは、ユダヤ人の世界で働かれているイエス様に対する、その世界を越えて、異邦人の世界でも働かれて欲しいとの呼びかけでした。

そして異邦のこの女性のイエス様への態度を思う時、私は次の御言葉を思わずにはいられませんでした。

ご一緒に読んでみましょう。新共同訳11頁下の段、マタイによる福音書第7章7節8節です。

7:求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

8:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる、

これだけの熱意をもって、これだけの真剣さをもって、私たちは自分に与えられた課題を見出し、イエス様と向き合っているのかが問われるのです。

マルコに戻ります。続いて、31節から37節です。

31:それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。

32:人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

33:そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。

34:そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファッタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

35:すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

36:イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

37:そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

イエス様のなされる業に対する、民衆の感嘆の声が聞こえるようです。

「求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。」

試練に遭う時だけでなく、自ら課題を見出して、この御言葉に支えられ、導かれて行きたいと祈るのです。 祈りましょう。

8月第5週の奨励

■日時:2020年8月30日(日)
■場所:立川教会
■奨励題:「アトウッド先生のこと」
■奨励者:中川美満(立川教会役員)
■聖書:コリントの信徒への手紙二2:14-17(新p327)
■讃美歌:289「みどりもふかき」・197「ああ主のひとみ」