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9月第5週の礼拝説教
■日 時:2024年9月29日(日)10:30~11:30聖霊降臨節第20主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:ヨハネによる福音書11章1~16節(P188)
■説教題:「 昼のうちに歩けば 」
■讃美歌:6(つくりぬしをさんびします。)509(光の子になるため)
本日の聖書箇所ヨハネによる福音書11章1節は「ある病人がいた」と書き出しています。その病人に、聖書のこの箇所を見聞きする者の関心がまず注がれるようにとの願いが込められているようです。そして、続いて「マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。」と状況説明をするのです。ところで、私たちはこの姉妹については、ルカによる福音書の10章の話が思い起こされるのではないでしょうか。そこにはマルタという女が主イエス一行を迎え入れて一生懸命にもてなしたことと、その時に彼女の姉妹マリアがもてなしの手伝いをせずに主イエスの足もとに座って、主イエスの話に聞き入っていたために、マルタは姉妹に対する不満を言ったことが記されていました。またラザロという名前も、本日の箇所のラザロとは別人ですが、ルカによる福音書の16章でイエスさまが語られたたとえ話の中に出てきました。ラザロという名前は「神は助けた」という意味なので、比較的用いられていたのかもしれません。本日の箇所で記されているマリアとマルタとラザロがおりましたベタニアは、少し先の18節にありますように「エルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった」ベタニアです。そして、実はその時主イエスがおられる所もベタニアという地名のところでした。10章40節に「イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」と記されています。紛らわしいのですが同じ地名ではありますけども、その距離はおよそ60キロメートル、徒歩で一日分の距離であったと言われています。3節を見ますと「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」とありますから、その知らせが主イエスに届くまでに一日かかっていることになります。そして、6節で「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」と合わせて、既に日にちが3日間経過しており、後に出てくる主イエスがラザロの墓に行かれた時に、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」という状況とも一致します。主イエスはなぜこのようなことをなさったのでしょうか。マルタはこの後主イエスに、21節で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言っています。もしも主イエスが間に合うように来て下さっていたら、ラザロは死なずにすんだ、主イエスが病気を癒して下さっていたからだ、と彼女らは信じているのです。だからこそ使いをやって、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」と助けを求める伝言を言わせたのです。主イエスさえいて下さったら、この病気によって死ぬことはなかった、と彼女たちは信じています。主イエスの神としての、救い主としての力に対する深い信頼がそこにあります。またそれは、主イエスが自分たちと兄弟ラザロを深く愛して下さっていることを、彼女らがいささかも疑わずに確信している、ということでもあります。しかし主イエスは、そのような彼女らの願いにもかかわらず、しかもこの病が死に至るものであることを知りながら、すぐに行動を起さなかったのです。非常に不思議な出来事です。しかし私は、ヨハネによる福音書がより現実に即して状況描写をしていること、それは、ラザロの死と主イエスがラザロを生き返らせたことが、本当の出来事であったということを淡々と示していると思うのです。
ところで、話が前後しますが2節に注目してみましょう。「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と記されています。その出来事は、少し先の12章3節に記されております。福音書記者ヨハネはそれをわざわざこの所であらかじめ記しているのです。そのことは、ヨハネによる福音書が単なる主イエスの伝記物語のようなものではないことを示しています。様々な出来事を伝えている資料があって、それを著者ヨハネが自分自身の信仰や当時の彼が属していたいわゆる「ヨハネ教会」の信仰を背景にして、編集して出来上がったものがヨハネによる福音書であるということが考えられるのです。つまり、この2節の言葉の中に、著者ヨハネが前面に出て来ているということもできるのです。そのようにして読んで見ると、2000年前に語り伝えられ始めた福音書が、私たちの前に生きた信仰を伝えるものとして迫ってくるような思いがいたします。
主イエスは4節で「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」とお語りになっています。そして、5節を見ますと「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と記されており、主イエスは、特別に愛しておられたマルタとその姉妹マリアとその兄弟ラザロを通して神の栄光が現れる、と深く考えておられたことが分かります。そのことのために、すぐにでも駆け付けたいという思いをあえて抑えた二日間が必要だったのではないかと考えられます。
さて、二日間とどまられたのち、主イエスはユダヤに向かうことを弟子たちに告げられます。当然、弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言い、危険だと止めようとします。ここで、主イエスに対する呼びかけの言葉に注意したいと思います。姉妹たちが人をやって主イエスに呼びかけたのは、「主よ」という言葉でした。しかし、弟子たちが呼びかけている言葉は、「ラビ(先生)」です。そこには、当時の社会の中で一般的な師弟関係にあるという繋がりが表されているように思います。つまり、弟子たちにとっては、まだ自分たちの救い主イエスという繋がりがはっきりと構築されていなかったのかもしれません。9節で主イエスは「昼間は12時間あるではないか。」と唐突な印象の返事をなさっています。この主イエスの言葉は、ユダヤ人が夏でも冬でも日の出ている時間を12等分していたことを前提としています。弟子たちが「ユダヤに行くなどとんでもない。そんな余裕などありません」と言うのに対して、主イエスは「昼間は十二時間あるではないか」「時間はまだたっぷりとあるではないか」と言われたのです。続けて主イエスは「昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われました。ここでの「この世の光」とは太陽の光ばかりではなくて、主イエスご自身をも指しております。8章12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。主イエスは、弟子たちが世の光である自分を見ているならばつまずくことはない、しかし、世の光である自分を見ていないのであれば、その人は夜歩く人のようにつまずくと言われたのです。現代社会は常に時間に追われているように忙しく、私たちは、何事に対してもつまずきそうになって歩んでいます。主イエスはそのような私たちにも「昼間は十二時間あるではないか。この世の光であるわたしを見つめて、余裕をもって歩むならば、あなたはつまずくことはない」と言われるのです。
この箇所では、主イエスに残された時間が少ないということをも示しています。その残された時間の後、やがて闇がやってくる、主イエスがこの地上での宣教活動をお止めになるときが来る、それまでの時間、主イエスはこの地上でできる限りのことをするのだとおっしゃっているのです。そして、何度か申し上げていますが、ヨハネによる福音書に記される最大のしるしでもあり十字架のまえの最後のしるし、ともいうべきラザロを生き返らせるという出来事に向かって歩んで行かれます。弟子たちはまだこの場面で、主イエスが実際何をなさるのか分かっていませんでした。主イエスはラザロを起こしに行く、と語られました。しかし、ラザロはもう死んでいるともおっしゃっています。11節から14節は、主イエスのお語りになっていることと弟子たちの受け止め方に食い違いがあることを示しています。しかし、主イエスは弟子たちの戸惑いや勘違いにたいして、「ラザロは死んだのだ。15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」と語られました。彼らは世の光であるイエスさまが共に歩んでくださっているにも関わらず、光を持たない夜のように歩んでいたのです。ですから、弟子たちには何が何だか分からなかったかもしれません。しかしなにかただならぬことのために、主イエスが危険なユダヤ地方に向かわれる、そう感じたことでしょう。そして、それはその場の弟子たちだけではない、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書では、本音を語るものとして描かれている弟子のトマスは、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と語りました。16節の最後で記されています。イエス様が愛されていたラザロが死んだ、いまさらそこへ向かったとてどうなるわけでもないだろう、しかしなお、危険を冒してまでイエス様はそこへ向かおうとされている、そのただならぬ主イエスの行動に戸惑いながらも、トマスは、「一緒に死のうではないか」と自らを駆り立て弟子たちをも誘いながら、最後まで主イエスの弟子としてついていこうと決意を表しています。勘違いであり、的外れの決意表明なのですが、そのことをも十分に受け止めておられる主イエスがそこにおられます。主イエスは、そのような弟子たちと共に、昼のうちに歩いて行かれるのです。私たちの歩みも、もしかしたらそのようなものかもしれません。それでも、主イエスの後に従って歩み続けたいと思います。
※立川教会では、11月17日(日)午後1時から、礼拝堂を会場にして、カンテレ(フィンランドの伝統楽器)の演奏(はざた雅子氏)とそれにまつわるお話(橋本ライヤ姉)の会が開かれます。入場は無料です。どうぞ、どなたでもご出席ください。
立川教会牧師 保科 けい子