お知らせ

6月に入りました。
今月が終われば、2021年も半年を経過したことになります。
昨日のメッセージでも触れましたが、立川教会は、昨年の最後の主日から昨日まで、4月第1週のイースターを除き、オンラインによる礼拝が続いています。
今は、緊急事態宣言の解除を待ち、又ワクチンの接種が教会員及び関係者に行き渡ることを願いつつ、通常礼拝の再開を待っています。

私たちの教会に関わる限り、私を含む立川市在住の高齢者の多くは、1回目のワクチンの接種が何とか終わるように思います。何とかと言うのは、接種券は届いたものの、実際に予約を取ることが困難であったからです。しかも、繰り返しになりますが、立川市は1回目と2回目はセットではなく、1回目の予約は取れても、2回目は新たに取り直さなければなりません。行政は、なぜセットにしないのか疑問に思います。
接種の範囲を高齢者から若年層に広げる時、ぜひセットで予約出来るように市に要望を出したいと思います。

今回のお知らせに、6月第1週の説教に続き、昨日の「青年の夕べ」で話された感話を掲載します。
深い内容の素晴らしい感話でした。
皆様も、ぜひ読んでみて下さい。
次回は、6月20日(日)を予定しています。
時間は19時からに変わりますので、お間違えの無いようにお願い致します。

以下、今年度の立川教会の定例集会の案内です。
教会学校と聖研・祈祷会は、緊急事態宣言が続いている間は休会です。
ジュニア礼拝、主日礼拝、夕礼拝は、3密を避けて行っています。

・教会学校:第1~第3日曜日 8:30-9:00 第4、第5日曜日はありません。
※幼児・小学生対象

・ジュニア礼拝:第1~第3日曜日 9:15-9:45 第4、第5日曜日はありません。
※中高生対象

・主日礼拝:毎日曜日 10:30-11:30

・夕礼拝:第1~第3日曜日。但し、第3日曜日は「青年の夕べ」を兼ねるため、時間帯が変わります。第4、第5日曜日の夕礼拝はありません。
 第1・第2日曜日19:00-20:00
 第3日曜日17:00-18:45

・聖書研究・祈祷会:毎水曜日 10:00-11:00
夜ではなく、昼間に変わりました。聖書研究では「ローマの信徒への手紙」を学びます。

◆2021年6月第2週の礼拝予告

■日時:2021年6月13日(日)10:30-11:30聖霊降臨節第4主日
■場所:立川教会
■説教:飯島信牧師
■説教題:「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」
■交読詩編25:1-11(p30)
■聖書:新約ローマの信徒への手紙5:1-5(新約p279)
■讃美歌:7「ほめたたえよ」・536「み恵みを受けた今は」

◆今週の聖書日課(6/6-6/12)【日本基督教団「日毎の糧」(2021)から転載】

6/ 6(日)【悔い改めの使信】エゼキエル書18:25-32詩編25:1-11
使徒言行録17:22-34

6/7(月)【4つの生き物】エゼキエル書1:1-14詩編45 
ローマの信徒への手紙15:14-21

6/8(火)【生き物の頭上の栄光】エゼキエル書1:15-2:2詩編46
ローマの信徒への手紙15:22-33

6/9(水)【エゼキエルの召命】エゼキエル書2:3-3:11詩編47
使徒言行録1:1-14

6/10(木)【エゼキエルの務め】エゼキエル書3:12-27詩編48
使徒言行録1:15-26

6/11(金)【エルサレムの裁き】エゼキエル書5:5-13詩編49
使徒言行録2:1-13

6/12(土)【偶像崇拝の実態】エゼキエル書8:1-13詩編50
使徒言行録2:14-36

主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法

https://www.facebook.com/tachikawachurch/live

にアクセスします。
(お気に入り登録をしておくと、その都度URLを入力しなくも済みます。)

※Facebookユーザーでなくても、礼拝の視聴は可能です。
※Facebookユーザーでない場合、「ログイン」または「新しいアカウントを作成」の画面表示が出ますが、ログインや新しいアカウントを作成しなくても視聴することができますので、無視して問題ありません。
※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。

◆日本基督教団立川教会 創立1951年2月11日 主任担任教師 飯島信牧師
◆〒190-0022 東京都立川市錦町3丁目11番9号 電話/FAX042-523-2023
◆郵便振替 口座名:日本基督教団立川教会 口座番号:00110-1-92251
◆郵貯銀行 預金種目:当座預金 店名:0一九 口座番号:0092251
◆教会墓地 八王子市南淺川町3079 第二高尾霊園(京王線高尾山口駅下車徒歩20分)

◆2021年6月第1週の説教
■日時:2021年6月6日(日)
■場所:立川教会
■説教題:「アブラハムの信仰」
■聖書:新約ローマの信徒への手紙4:13-17(p278)
■讃美歌:155「山べにむかいて」458「信仰こそ旅路を」

お早うございます。

6月、最初の主日を迎えました。

すでに、今年に入ってからですが、4月4日(日)のイースターを除き、一度も通常の礼拝を守ることが出来ていません。実に、5ヶ月間にわたって、各家庭での礼拝が主になっています。

それでも、私にとっては、皆様の存在は少しも遠くなっていないのです。

昨年末から一度もお会いしていない、あるいは今年に入って一度しかお会いしていない方に対してもです。

不思議なことですが、それには理由があります。たとえお会い出来なくても、毎週週報や説教原稿などを送らせていただいているからです。その度ごとに送る方の姿を思い浮かべているからです。ですから、私にとっての皆様は、いつも身近にいます。

立川教会は、2021年度の定期総会とそれに続く臨時総会も、70年の歴史で初めて書面で行いました。戸惑われた方も少なくないと思いますが、それでもほとんどの方々がしっかり議決権を行使して下さり、感謝しています。但し、私が今年度をもって辞任する議案については、やはり書面ではなく、皆様の前で私の想いを述べたかったです。その点で、私が辞任することに驚かれた方々には申し訳なく、心からお詫び致します。

辞任を認めるか否かを判断する資料としては、小高伝道所で行ったメッセージ原稿だけであったにもかかわらず、反対はなく、保留の方が2名で、その他の方は私の申し出を受け入れて下さり、深く感謝しています。

先週は、私の後任者になっていただきたいと考えている保科けい子牧師を福島からお招きし、メッセージを語っていただきました。揺るぎない福音信仰に立ち、高齢者が多い私たちを配慮してゆっくり語って下さり、本当に聴きやすかったです。礼拝の後、会堂は、保科先生を中心に和やかな雰囲気が訪れていました。今、先生を招聘するか否かについての投票を行っています。何よりも、祈りをもって、神様の御心を尋ねつつ、投票に参加して下さることを願っています。

さて、今日与えられた御言葉を見てまいりましょう。

ローマの信徒への手紙第4章13節から17節です。

まず、13節、14節です。

13:神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。

14:律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。

13節に「世界を受け継がせる」とありますが、その意味は、アブラハムやその子孫に「世界を支配させる」と言うことではありません。神様の御前にあって、義なる者、義しい者として認めると言う意味です。そして神様は、その義しさは、律法を守ることによってではなく、ただ神様を信じる信仰によってのみ与えられると言うのです。

当時のユダヤ社会を考えた時、パウロのこの主張は到底受け入れることは出来ませんでした。無理もありません。神様からモーセに与えられた十戒を基に、600を超える律法、即ち、日常生活において人々が守るべき掟があったからです。大切な安息日の過ごし方などもその一つです。つまり、それらの細々(こまごま)とした掟の上に社会が成り立っていました。そして、人々は、律法を守るためにあらゆる努力をしていました。何故なら、たとえ決まりの全てを守ることは出来なくても、少しでも守れる律法の数が増えれば、それだけ神様

の祝福が増し、御前にあって、より義しい者とされると考えたからです。

神様に義しい者とされ、祝福を受けることが、人々にとってどれほどの切実な願いであり、大切なことであったでしょうか。

信仰心が篤ければ篤いほど、人々は必死になって律法を守りました。

律法を守ることが出来なければ、神様からの祝福を受けることは出来ず、神様から見捨てられることを意味したからです。神様から見捨てられる。人生の破滅です。それほどまでに、律法は、人々の生活にとってなくてはならない拠り所でした。

それに対し、パウロは語るのです。

神様の前に義とされるのは、律法を守ることによってではないと。

律法によらず、ただ神様を信じる信仰、それだけで十分なのだと。

驚くべき言葉でした。

しかし、同時に、この言葉は人々を躓かせます。

それまで必死に律法に縋(すが)って生きようとした自分たちの日頃の努力が、節制が、御前に義しいとされるには意味のないものとされたからです。

彼らは問います。それでは一体何のために、自分たちはこれまで一生懸命に律法を守って来たのかと。神様の祝福を受けるためではないかと。それなのに、この男は、律法を守ることによって御前に義とされることはないと言う。では、どうしろと言うのかと。

パウロは答えます。

15、16節です。

15:実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。

16:従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムの全ての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。

15節を分かりやすく言い換えれば、決まりと言うものがあるから、それに対する違反があるのであり、決まりがなければ、それに対する違反もないと言うのです。

決まりは、それを破る者を許しません。破る者には、怒りが向けられます。つまり、律法は、神様からの怒りを招くために与えられていると言う理解です。そして、パウロは続く16節でアブラハムを登場させ、神様が私たちを義(ただ)しい者とされるのは、アブラハムのような信仰を持って生きることであると述べて行きます。

それでは、パウロが模範として示したアブラハムの信仰とはどのようなものでしょうか。それを知るために、創世記に記されている二つの出来事を見ておきたいと思います。

始めに創世記第12章1節から4節です。(15頁)

1:主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷

父の家を離れて

わたしが示す地に行きなさい。

2:わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の源となるように。

3:あなたを祝福する人をわたしは祝福し

あなたを呪う者をわたしは呪う。

地上の氏族はすべて

あなたによって祝福に入る。

4:アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。

アブラムは、ハランを出発したとき75歳であった。

良く知られているアブラハムの旅立ちの場面です。

これが一つ。次に、第22章1節から13節を読みます。(31頁)

1:これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、

2:神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

3:次の朝早く、アブラハムはろばに薪を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。

4:三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。

5:「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻って来る。」

6:アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。

7:イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる、わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」

8:アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて

くださる。」二人は一緒に歩いて行った。

9:神が命じられた場所に着くと、アブラハムそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。

10:そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

11:そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、

12:御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

13:アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

この二つとも、とても厳しい話しです。

と言うより、信じられない話しです。

特に、アブラハムが息子イサクを神様に捧げる話しは、まともに考えれば残酷過ぎて耐えることが出来ません。

しかし、感情に押し流されることなく、この二つの場面、前者は、行く先を知らずして旅立つアブラハム、そして後者はイサク奉献の場面ですが、この二つに共通する事柄が何かを考える時、そこにはある大切な問いが私たちに向けられていることに気が付きます。それは、創造主と被造物との関係、そして、自分とは一体何者なのかと言う問いです。

イサク奉献の出来事から考えてみます。

すでに年老いていたアブラハムとその妻サラにとって、子どもが生まれることなど不可能でした。その不可能を可能にしたのは、神様からの一方的な恵み、ただそれだけでした。人間には不可能な世界に神様が介入し、アブラハムとサラの祈りに応え、イサクを二人に与えたのです。つまり、イサクは、神様の恵みによって与えられた子どもでした。そのイサクを神様に捧げよとの命令は、アブラハムにとって、主が与え、主が取られることであり、イサクは、決して自らの所有に帰するものではなかったのです。つまり、誰とも代えることの出来ない最愛の息子であっても、イサクは神様からの恵みの賜物であり、イサクは、神様に帰する者でした。どんなに大切な、血を分けた息子と雖(いえど)も、イサクは神様に帰する者であることをアブラハムは受け入れたのです、ただ、信仰によってです。そして、神様は、その信仰を義と認められました。

前者のアブラハムの旅立ちにしても、問われているのは同じ問題です。

自分が生まれ育った故郷。財を築き、生活を安定させ、友人知人にも恵まれた土地。

しかし、アブラハムにとって恵まれたその環境の全ては、神様によって与えられた、備えられた環境であり、その一切の主(あるじ)は、神様でした。自分は、神様によって造られた土の器であるとの峻厳たる自覚です。

だからこそ、土の器に過ぎない自分に命の息を吹き込まれた方が命じることであるなら、その命に従うことは自然であり、導かれるままに旅立つことが出来たのです。

このように、アブラハムに関わるこの二つの話しが私たちに教えているのは、私たちは神様によって造られた被造物であること、そして、私たちを造られた神様を信じる信仰によって、神様の命じるままに従う生き方こそ、世界を受け継ぐ、御心に適う、神様に義とされる生き方であるのだと言うことです。

さらにパウロは語ります。

17節です。

17:「(神様が)わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのですと。

今日、パウロが語ったアブラハムの信仰から、私たちが学ぶべきことがあります。

それは、何事にも固執することなく、自分に与えられている全ては、今生活している一切の環境も含めて、神様からの恵みであると言うことです。この命、この身体、家族の一人ひとり、大切な友人や知人、職場など一切です。

それだけではありません。

この教会も、教会の交わりも、この建物も、庭も、外にある空に真っすぐに伸びる十字架も、その全ては神様からの恵みであることをです。

そして、それら全てに対し、自分を満足させるためではなく、神様の栄光を現すため、そのことだけを望み求めて関わり、奉仕をする、そのような者となることを、パウロは私たちに呼びかけています。

祈りましょう。

2021年6月6日(日)「青年の夕べ」

髙橋紀渚(たかはしきな)

◯イザヤ書60章17節

わたしがあなたに与える命令は平和あなたを支配するものは恵みの業

◯英語讃美歌111番INeed Thee Every Hour

◯日本語讃美歌II-177あなたも見ていたのか

感話

バランスをとらない

わたしは、山形県にある基督教独立学園という高校を卒業し、今は大学院の2年目ですが、1年間の休学をしている最中です。ちょっとしたきっかけから、残りの休学期間は、独立学園の女子寮の舎監として働くことになりました。もうすぐ、6月末から、休学期間いっぱいの来年3月まで、独立学園の共同生活にもういちど、まぜていただきます。独立学園での3年間は、自分にとっては原点です。感じることも、考えることも、ゆっくりと学んだところです。

もう1年以上前になってしまいましたが、わたしは大学の卒業論文を、「キリスト教独立学園高等学校の『キリスト教的独立』の思想と教育」と題して書きました。卒論を書く中で得た学びと、その学びに立っていま、わたしがどうありたいと願うかについて、今日はお話します。

青年の夕べにはご存知の方が多いのですが、独立学園は山形県西置賜郡小国町の叶水という、雪深い田舎にあります。普通科の高等学校で、ひと学年の定員が25人という、教職員を合わせても100人に満たない、全寮制の小さな共同体です。無教会キリスト教の提唱者・内村鑑三の弟子、鈴木弼美が1948年に創設しました。「読むべきものは聖書である、学ぶべきものは天然である、為すべき事は労働である」という独立学園の「三本柱」は、内村の言葉をもとに立てられていて、その営みの中心にあります。教育の理念は、「『神によって作られた人格』の尊重を自覚せしめ、天賦の個性を発展させ、神を畏れるキリスト教的独立人を養成する」ことです。

卒論を書くにあたり、わたしは独立学園が創設当初から発行している学校誌「独立時報」をさかのぼって読んだり、歴代校長の著作や寄稿文、独立学園の歴史を記録したものなどを読んだりしました。その中でひとつ、なんだか胸を打つ文章がありましたので、紹介させてください。それは、独立学園の創立式の様子を、理事の一人であった鈴木俊郎という方が書き残したものです。引用します。

晴れあがった五月の朝であった。溌剌たる新緑が午前の太陽に輝いていた。式場は学校の二階であった。学校といっても、そこは校長とその家族の住宅であり、職員の居室であり、生徒の寄宿舎であり、教室であり、礼拝堂であり、実験室であり、工作場であり、乳牛もその一部に草をはみイバリをする一塊の建物である。生徒は中央に、来賓は西側に座について式が始った。飾られた山藤

の花が美しくあった。1 

1 『神に依り頼む―基督教独立学園五十年記念文集―』基督教独立学園、1987 年、50 頁。 

ただ創立式の様子を描写した言葉です。独立学園の始まりは、こんなにも小さく、貧しく、朗らかなものだったのだと知りました。 

卒論に取り組むにあたり、わたしは、独立学園の理念にある「キリスト教的独立」とは何か、ということをひとつの問いとして立てました。内村はたびたび、「独立」ということを言っていますが、「キリスト教的独立人」という言葉は、おそらく鈴木がはじめに言ったものではないかと思います。「キリスト教的独立」とは何かという問いへの、自分なりの応答も論文内ではしました。しかし、卒論に取り組んでよかったのは、想定していなかったことを問い、想定外の結論を得たことです。想定していなかった問いは、「独立学園の教育が(生徒のうちから)引き出しうるものは何か」というもので、これに対するわたしの結論は、「ことばであり、すなわちいのちである」というものでした。 

独立学園創設者の鈴木弼美は、教育を、個々人に固有に与えられた尊いものを、一人ひとりの内から「引き出す」営みであると信じました。この、個々人に固有に与えられた尊いものが「引き出される」ときというのは、その人にしか語ることのできない「ことば」が引き出されるときである、とわたしは考えました。論文を一部、引用します。 

独立学園の教育が引き出し得る「貴いもの」とは、「ことば」であると思う。ここで平仮名の「ことば」を用いるのは、物事の分析や説明などを担う言語としての「言葉」から区別して、「私を語ることば」を意味するためである。簡潔に言いかえれば、頭で考えた「言葉」と、心を表現する「ことば」との区別である。「言葉」と「ことば」の区別に固執する意図はないし、この区別は本来不自然かつ不適切であるようにも思われる。しかし、「ことば」を得ることで「言葉」と「ことば」の区別を認識し、「ことば」を生きるようになることで、「ことば」と「言葉」の区別が消滅していくように思うため、ここでは上述の区別を採用する。自分自身が在学中に語ったことや書き記したこと、また、他者が語り、記したことを振り返ると、独立学園の教育が生徒にどのような「挑戦」として望んでいるかが見えてくる314。それは、「私を生きる」とか「自分らしく生きる」ことの挑戦である。「空気」に流されたり、他者への恐れに支配されて言動するのではなく、本当の自分で人と関わりたい、という願いを私も持っていたし、そのような言葉をよく目に耳にしていた。そして、「私を生きる」という言葉によって多くの生徒が意味するのは、第一に「私のことばを生きる」ことのようなのである。自 

分自身から本当に出てくることばを語りたいという願いだ。私自身は独立学園2 年生の時に、頭でつくり出すのではない、「私」を表現することばが自分の内には無い、という現実に向き合わざるを得なくなる出来事があった。心の深くから抑えようもなく湧き上がる感情に向き合っていた、ある同期のことばに対して、頭で作った聞こえの良い応答を返した私への、一人の教師からの指摘がきっかけであった。頭で考えた言葉ではなく、心を素直に表現することばを求めるようになって知らされたのは、「わたしの経験がわたしのことばの意味を担う」ということであった。「誰が何を言おうと、本当だ」と言えるものを探した私に与えられたのは、労働の喜びや、大自然の中に他者と共に在る喜びであった。そして今、「労働」という言葉を私が発する時、私の内には独立学園での作業の光景も、汗を流して全身で労した楽しさや大変さなども含めた、確かな意味が存在する。「経験がことばの意味を担う」ことの一例としてよいだろう。肉体労働の疲労が清々しい、登山後の山頂で他者と過ごす時間が嬉しい。この「清々しい」「嬉しい」という言葉が確かに嘘偽りのない私のことばであるように、その他さまざまなことについても、私は確かな感触に基いてことばを発することができるようになっていった。また、一度「私」と「ことば」が確かに繋がれば、経験が積み重ねられてゆくように、一つひとつのことばの意味も広がってゆく。 

このようにして、経験と、経験が意味を与える「ことば」を知った私は、他者にも固有の経験があり、「ことば」の自由があることを知った。人は誰もが唯一無二の存在である。故に、自分を表現することばは、他者の真似をしていては発せられないし、ましてや「空気」を読んだり、誰かの機嫌をとることを目的としていては、発することは出来ない。唯一無二でしかあり得ない個人が「私」語ることばは、唯一無二のものとならざるを得ない。使う単語や言い回しのことではない。一人の人間に固有の経験に裏づけられた「ことば」が唯一無二なのである。そのことばは、それを発する者に固有の、「貴いもの」である。それは、人間の尊厳である。誰も侵すことのできない、唯一の経験に基いたことばが引き出される時、それは、それを語る人間に固有の尊厳をあらわす。 

今わたしが話す時を与えられているように、独立学園でも感話などの機会が多くあります。自分の3年間を振り返ると、心を守ることに精一杯で、とても言葉でみんなに伝えられなかったことはたくさんありました。手に負えない感情を抱えて、どうしても言えないことにも、言葉にならないことにも、直面しました。たくさんの限界を抱えながらも、独立学園でわたしが見た、教育により「引き出され得るもの」はみんなの「ことば」でした。そして、

論文を閉じるときにふと、ことばが引き出されるとは、いのちが引き出されることなのだ、と思ったのです。その者にしか語り得ない自由なことばは、命の尊厳を帯びるとわたしは思います。だらだらと長くなってしまった論文で、見出した結論は「いのち」というたった3文字で片付くと思ったとき、本当に卒論を書いてよかったと思いました。「いのち」について、わたしは論文で全然表現できていないと思ったとき、自分なりの学びが真実であったと思えました。論文で表現したかったのは、自分の所有することの叶わないものだったとわかって、感動しました。一人ひとりに与えられている「いのち」という結論を、たとえば誰かに伝えようと思ったら、論文でいくらことばをこねくり回すことより、一緒に美しい原っぱに寝そべって、太陽のぬくもりを瞼の裏に感じ、思い切り息を吸い込む方が、よっぽど伝えられるのだと思って、感動しました。 

以上が、わたしの卒論の結論です。今日の感話の題を、「バランスをとらない」にしました。わたしは「いのち」という大学卒業時の学びの結論を、本当に大切にしたいと思うのです。 

わたしはしばらくの時期、とても気になって違和感をもっていたことがありました。それは、「中立」とか「バランスをとる」ということに最終的に落ち着こうとすることです。そのような一歩引いた態度を、「現実的である」とか「冷静である」とか見ることです。中立とは何かとか、そういう問題はここではひとまず放っておきます。わたしはいのちの問題について、バランスをとろうとしたり、存在しない「中立」なるものを目指したりしたくないと思います。いのちの性質である、「与えられているということ」と「弱さ」の側にいたいし、そこにいてことばをもちたいと思います。したがって、いのちがいのちとしてあることだけをもって、それを大切に思う人になりたいです。いのちとして、誰もが全きものであるということ以外は、微々たる差であると、信じ切れる人になりたいです。なぜならわたし自身が、ただただそういう安心を必要としているからです。だってイエスは、バランスをとったりしなかったじゃん、めちゃめちゃ振り切った態度だったじゃん、と思います。 

先日、独立学園の後輩二人と、話すことがありました。学園時代に自分たちが一人の人間として存在を受け止めてもらっていたこと、話そうとしたら聞いてくれる人たちに囲まれていたこと、そのようなことがこんなにもありがたかったね、と話しました。翻って今の場所が、(それは職場だったりするわけですが)、そういう場ではないということが悲しいことです。わたしは来月から、今の学園で生活している生徒たちと、関わることができます。「当時は当時でとてもしんどかったけれど、あのように人間として大切にされていたことがありがたかった」という後輩のことばを、わたしはいつも思い出しながら今、独立学園にいる生徒たちと関わりたいと願っています。この世界で、いのちがいのちらしく、大切にされることを祈ります。わたしがそうあれるように願います。 

2021年5月31日(月)
立川教会牧師飯島 信

5月第1週の説教

■日 時:2021年5月2日(日)
■場 所:立川教会
■説教題:「力ある神の子、私たちの主イエス・キリスト」
■聖書:新約 ロ-マの信徒への手紙1:1-7(p273)
■讃美歌:6「つくりぬしを賛美します」・364「いのちと愛に満つ」

4月第4週の説教

※立川教会は金子玲子姉の奨励でした。ライブ礼拝で視聴出来ます。ここでは、飯島信牧師の東北教区小高伝道所(福島県南相馬市小高区)の説教を掲載します。

■日時:2021年4月25日(日)15:00-16:00
■場所:日本基督教団小高伝道所(福島県南相馬市小高区本町1丁目)
■説教題:「導かれるままに」
■聖書:旧約詩編86編1-10節(旧約923頁)
新約マルコによる福音書12章28-34節(新約87頁)
■讃美歌:120(主はわがかいぬし)・155(山べにむかいて)・566(むくいを望まで)

4月第1週の説教

■日時:2021年4月4日(日)
■場所:立川教会
■説教題:「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
■聖書:新約マルコによる福音書16:1-8(新約p97)
■讃美歌:325「キリスト・イェスは」・226「輝く日を仰ぐとき」