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2月第4週の礼拝説教
■日 時:2026年2月22日(日)10:30~11:30受難節第1主日
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マルコによる福音書1章12~15節(新約P61)
■説教題:「 時は満ち、神の国は近づいた 」
■讃美歌:1(主イエスよ、われらに)294(ひとよ、汝が罪の 大いなるをなげき、)
このところ、厳しい寒さが続いておりますが、今年の教会暦では先週の2月18日(水)より、受難節あるいは四旬節とかレント(Lent)と言われる時期になりました。主イエス・キリストが荒れ野で40日間断食されたことにちなんで、イースターの前の日曜日を抜いた40日間を、信仰の訓練期として節制、修養、断食などを行う教会もあります。「レント」は英語ですが、古代英語で春を表わすレンテンからきているとも言われています。受難節はイースターからさかのぼって定められます。毎年イースターの日付が違う移動祝日であるのは、主イエスが十字架にかけられたのがユダヤの過越祭という祭の時期だったことに関係しています。月の満ち欠けに従うユダヤの暦に倣って、教会は325年のニカイア公会議で、春分と満月からイースターの日付を決めることにしました。「春分の日以降、最初の満月の日の次に迎える日曜日」と決められています。春分の日も移動祝日で、毎年3月20日か21日のいずれかですから、イースターは毎年3月下旬から4月のいずれかの日曜日になります。ところで受難節と言いますと、キリスト教や教会のことを知らない人からは、教会ではなぜ,嫌なこととか苦しいこととか難しいこととかを、わざわざ受けるという時があるのかしら、と問われたりもします。言葉だけを見ていれば、そういうことになるのかもしれません。しかし、教会に来ている私たちにとっては、受難というのは主イエス・キリストが私たち一人一人のために受けられた十字架の苦しみであり、その意味を深く考える時期が受難節であるのです。
さて、本日の聖書箇所の最初の段落は、「誘惑を受ける」という見出しがついています。12節のはじめに「それから」とありますが、この箇所は以前の口語訳聖書では「それからすぐに」となっていました。そして、今出ている一番新しい訳の聖書協会共同訳も同じく「それからすぐに」と訳されています。ギリシャ語の原文には「すぐに」という言葉があるのです。以前に「四人の漁師を弟子にする」という箇所を取り上げたときも申し上げましたが、この言葉はマルコによる福音書にしばしば出てくる特徴的な言葉です。「すぐに」というのは、その前に語られていることとこれから語っていくことを結びつける言葉です。前に語られていることから時を移さずにすぐに、これから語ることが起った、と言っているわけです。では、本日の箇所の前には何が語られていたのでしょうか。それは、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったことでした。「水の中から上がるとすぐ」、天から“霊”が、鳩のように主イエスに降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。主イエスが洗礼を受けたことと、「あなたはわたしの愛する子」という父なる神の宣言を聞いたこととが密接に結びつけられています。その出来事の後、すぐに起ったことが本日の箇所に語られているのです。
では、すぐに何が起ったのでしょうか。それは、「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」ということでした。この箇所も口語訳や聖書協会共同訳では「イエスを荒れ野に追いやった」と訳されています。「追いやった」の方が原文の意味に近いのです。「送り出した」というと、「行ってらっしゃい。あなたの無事を祈っていますよ。気をつけてお出かけくださいね。」という感じですが、ここではそうではなくて、主イエスは“霊”によって、荒れ野へと追いやられた、つまり、無理矢理に行かされてしまったのです。聖書の語る荒れ野とは、人間が土を耕して作物を得ることもできない、厳しく不毛な場所です。石ころだらけのほこりが立つ赤い土で、風が吹いたらそれが舞い上がる、そういうところです。そのような場所へと主イエスは追いやられたのです。そのことが、洗礼を受け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声を聞いた後で、すぐに起ったのです。私たちもまた、洗礼を受け、主イエスを信じる信仰者となって生きていこうとする時、荒れ野へと追いやられるような体験をすることがあります。例えば、それは日曜日の午前中のこの時間、毎週教会に来て礼拝をするということ一つにも、いろいろな戦いが伴うことから感じることができます。そのことを職場や学校や家庭における周囲の人々に理解してもらうのは大変です。洗礼を受けたら目の前にきらきらと輝く光が見えるような道が開かれると期待していたのに、現実にはその逆のいわば荒れ野に通じるような道がそこに現れてきたということかもしれません。
13節で「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」と記されています。この40日という日数は、出エジプト記34章28節で「モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。」と記されている出来事、すなわち、モーセがシナイ山で十戒を授かったことを思い起こさせます。先ほども申し上げましたが、ここでの40日間という日数が、受難節の日数と深く関わっているのだと思います。マタイによる福音書とルカによる福音書には、主イエスがサタンから受けた誘惑の内容が記されています。しかし、最初に書かれた福音書であるマルコには、誘惑の内容は語られていません。ただ「サタンから誘惑を受けられた」とあるだけです。著者マルコがここで語ろうとしているのは、主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けたということであり、それは洗礼を受けた者の誰もが、しかも信仰者として歩み出してすぐに体験するのと同じことだったのだ、ということなのです。40日間の受難節の私たちの歩み、それはまさに、荒れ野に追いやられて誘惑を体験するということなのではないかと思います。
さて、荒れ野から戻られた主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられるとガリラヤでご自身を世に現わされました。いよいよ時が満ちたのです。主イエスはどのような活動をなさったのでしょうか。14節の後半には「神の福音を宣べ伝えて」とあります。福音とは、「喜ばしい知らせ」という意味です。では、主イエスは一体どのような喜ばしい知らせを宣べ伝えたのでしょうか。その内容を簡潔に語っているのが、15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という御言葉です。ここで「時」と訳されている言葉は、私たちが日常生活あるいは社会生活を送る上で普通に「時間」という意味で用いている言葉とは違います。自然に流れていく時間を意味する言葉は、聖書では「クロノス」と表現されています。それに対してここで用いられている「時」は「カイロス」という言葉です。それは、特別な意味を持った「時」、それによって歴史が変わるような、そして私たちの歩みをも変えられていくような時を意味しています。「時は満ちた」というのは、そういう特別な意味を持つ時が来た、ということなのです。この神様の時が満ちたことを、世は知りませんでした。ただ、神の独り子である主イエス・キリストだけが御存知でした。それは今も同じです。世はこの時を知りません。この神様の救いの時が来たことを知っているのは、主イエスによってそのことを知らされ、この神様の救いに与った者たちだけです。私共は、この神様の救いに与り、この時を知らされたのです。そのことを深く覚えたいと思います。
続いて、主イエスは「神の国は近づいた」と告げられました。神の国、それは目に見える形で、国が天から降ってくる、そういうものではありません。それは神様のご支配、それがそこに生じている、そういうことです。神様の御支配ということです。この言葉は、まだ完全には来ていないけれども、もうほとんど来ている、そういうニュアンスを持った言葉です。すでに来たが、まだ完成されていない、そういうことです。救い主である主イエスが来られたのですから、もう神様の御心は表され、神様の救いの御業による御支配はもう始まったのです。そして、主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めというのは、悪いことをしてしまった、あの人を傷つけてしまった、ひどいことをしてしまった、と単純に反省する、人前であるいは誰かに対して反省する、というようなことではありません。詩編51篇5節,6節に「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。」と主なる神の御前に赦しを願う祈りの言葉があります。そのように心砕かれ、罪赦されて新しくされ、神様の御心にかなった歩みをしていこうと一歩を踏み出していく、そのような営みが「悔い改め」ではないかと思います。それは、この私のために主イエスが私に代わって十字架に架かってくださった、と心から受け止めることから始まるのではないでしょうか。そのように私たちを赦し、神の子としてくださる、それが福音です。この福音と共に、神の国は私の所に来たのです。しかし、まだ完成されていません。だから、主イエス・キリストが教えてくださった主の祈りは「御国が来ますように」と祈り続けているのです。今年の受難節に、私たちは心からの悔い改めをもって、十字架の主イエスを仰ぎ続けてまいりましょう。
お祈りをします。
主なる神様、受難節第1主日を迎えることができました。しばらくの間、私どもは自分自身の深い心の闇を見つめ、また日常生活における自らの行動を思い、何よりも神様の前にひざまずいて、本当に悔い改める思いを深くすることができるように導いてください。そして同時に、主イエス・キリストは、そのような私たちのために十字架にお架かりになって、私たちを贖ってくださったのだということを深く覚えることができるように、一人一人を強めてください。この時も、病の中にあり闘病生活をしている信仰の友がいます。どうぞ、その病床に平安が豊かに与えられますように。また、この時も所用のために礼拝に集い得ない方もいます。どうぞ、それらの方々の上にも神様の祝福が豊かにありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン
立川教会牧師 保科 けい子
