◆立川教会の定例集会の案内
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2月第2週の礼拝説教
■日 時:2026年2月8日(日)10:30~11:30降誕節第5主日立川教会創立記念礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マルコによる福音書2章1~12節(新約P63~64)
■説教題:「 その人たちの信仰を見て 」
■讃美歌:58(み言葉をください、)390(主は教会の 基となり、)
昨日は、前日の金曜日から10度ぐらい気温が下がり、久しぶりに雪が降り出しました。そして今朝は10センチ近くの積雪があり、教会の坂道は滑るので危険な状態になっていました。朝早く来られた方がきれいに雪かきをしてくださいました。教会堂はエアコンでの暖房ですので、なかなか室温が上がりません。おそらく、立川教会が立川の地で伝道を始めた75年前の2月11日も、寒い日だったのではないでしょうか。暖房器具と言えば火鉢ぐらいしかなかったに違いない小さな部屋で、13名の方々が心を燃やして礼拝をささげたというのが、私たちの立川教会の出発点です。そのことを覚えながら、本日は創立75周年の記念礼拝をおささげしたいと思います。そして、本日の聖書箇所は、私が創立記念礼拝ということを意図してを選んだわけではなく、いつものように日本基督教団の聖書日課から、マルコによる福音書2章1~12節を取り上げたのです。それでも、本日の創立75周年の記念礼拝にふさわしく、私たちの信仰とはどのようなものか、教会とはどのようなものかを考えるのに適した聖書箇所であると思います。
さて、本日の聖書箇所マルコによる福音書2章1節から12節には、主イエスが再びカファルナウムの町に来られて、そこで中風の人をいやされたという出来事が記されています。主イエスはこのいやしの御業において、御自身が何者であるかということを示されました。主イエスは、それ以前にも多くの病人をいやしたり重い皮膚病の人を清めたりして、神の御子としての力を人々の前に示しておられましたが、この中風の人をいやされる出来事においては、単にいやしの奇跡を行われただけではなく、そのようなことが出来る御自分とは何者であるのか、ということをはっきりと大勢の人々や律法学者の前でお示しになりました。まず、10節に「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と宣言されていることに注目しておきたいと思います。
1節から2節を読んで見ます。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」とあります。「再びカファルナウムに来られると」とありますように、主イエスがカファルナウムに来られたのはこれが初めてではありません。前回来られた時には、安息日に会堂に入って汚れた霊を追い出し、その後にシモンのしゅうとめの熱を下げました。すると、夕方になって日が沈んで安息日が終わった途端、すなわち、当時のユダヤ教の暦では新しい日にちに変わった途端に、大勢の人が集まって来ました。病気にかかった人、悪霊に取りつかれた人、またそのような人を何とか治したいと思った人、そういう人たちが主イエスのもとに集まって来たのです。主イエスは、夜遅くまでそれらの人たちをいやされたことでしょう。しかし次の日には、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(1章38節)と言って、カファルナウムの町を離れてしまわれました。その主イエスが、再びカファルナウムの町に来られたのです。おそらく、前回と同じシモン・ペトロの家だったと思います。主イエスが戻って来られたと聞くと、前回のときに主イエスにいやしていただこうと思っていたのにそれが適わなかった人を初め、大勢の人が主イエスのもとに集まって来ました。「戸口の辺りまですきまもないほどになった」と2節には記されています。しかし、この家は普通の漁師の家ですから、そんなに大きな家ではなかったはずです。ですから、数十人も集まれば、押し合いへし合いの状態になったことでしょう。
主イエスはそこで何をなさっていたかと言いますと、「御言葉を語っておられ」たのです。前回、主イエスがカファルナウムを離れた理由の一つは、人々が主イエスにいやしだけを求めて集まって来たということでした。主イエスはもちろんいやしもなさいますが、そのためだけに来られたのではありません。マルコによる福音書1章15節に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と記されているように、そのことを御言葉と御業によって、すなわち御自身の存在全体をもって人々に告げ知らせる、そのために来られたのです。ですから、主イエスはカファルナウムに戻った時も、この神の国の福音を告げておられたのです。しかし、主イエスを追いかけて集まってきている大勢の人々はどうだったでしょう。主イエスの告げる神の国の福音を求めて、主イエスのもとにやって来たのでしょうか。そうではないと思います。この病気をいやして欲しい、悪霊を追い出して欲しい、そういう必死な思いで人々は集まって来ていたのではないでしょうか。だからこそ、少しでも主イエスに近づきたいと主イエスを取り囲んだのだと思います。
そのような状況の時に、自分で歩くことのできない病気の人を、四人の友人たちが床に寝かせたまま連れて来たのです。勿論、主イエスにこの友人をいやしてもらおうと願ってのことだったでしょう。しかし4節にあるように、「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので」す。すると彼らは、「イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」のです。当時のこの辺りの家は木の枝と泥を練ったもので作られていました。屋根は平らで家の外側に階段があるような造りになっていることが多く、簡単に屋上に昇ることができたのです。ですから、屋根に穴を明けることは比較的簡単だったことでしょう。4人は、主イエスのおられるのはこの辺りだろうと見当をつけて屋根に穴を明けたのです。家の中にいた人たちは、主イエスの話を聞いていると、突然天井からパラパラと泥が落ちてきて、そのうちそこに穴が開いたのですから、何事かと驚いたはずです。そしてそのうち、病人を寝かせた床が、四隅を吊るされて降ろされてきたのです。その場は混乱状態になったかもしれません。主イエスは、この人が中風であることはすぐに分かったと思います。また、カファルナウムという小さな町のことですから、この人を見るなり、どこの誰であるかということもわかり、この人が中風で苦しんでいるということも分かったと思います。中風というのは、以前にはよく使われていた病名ですが、今で言えば、脳梗塞あるいは脳出血による身体の麻痺ということになるでしょう。昔は身体が麻痺状態になったのを全部まとめて中風と言っていたのです。
5節をご覧ください。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」とあります。主イエスがまずご覧になられたのは病人ではなく、「中風の人を運んで来た」4人の男であり、彼らが主「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降した」という「その人たちの信仰」でした。これは、本日の聖書箇所のマルコによる福音書だけではなく、並行記事が記されているマタイによる福音書やルカによる福音書にも、複数形の「彼らの」信仰と書かれています。それから中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。ここに主イエスの視点、あるいは主イエスの御覧になる「見え方」が示されています。「あなたの罪は赦される」と語りかけられた「あなた」は中風の人ですが、主がご覧になったのは病人その人だけではなく「その人たちの信仰」でした。そして、「信仰」という言葉は単数形で記されています。つまり、一つの信仰です。中風の人と4人の仲間は心を一つにし、ただお一人の主イエスにすべてを委ねたのです。
ところが、この状況の中でつぶやく者たちがおりました。6節,7節に「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7 『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』と記されています。続いて8節では「イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。『なぜ、そんな考えを心に抱くのか。』」と、主イエスが律法学者たちの心の中の思いを見抜いておられることが記されています。この箇所を丁寧に読んで見ると、実は、マルコによる福音書の著者は、2章という早い段階から主イエスに対する律法学者たちのつぶやきを描き、既にこの段階で主イエスの十字架への道が始まったと考えているのではないか、と思うのです。2月18日(水)の「灰の水曜日」から、今年は受難節が始まります。そのことを少しだけほのめかされているように感じさせられます。
本日の聖書箇所の出来事は、祈りの在り方をたとえているとも言われます。そして、ここに、教会の姿が示されているとも言われます。私たちは、時には中風の人のように身動きができないほどに弱り果ててしまうことがあります。しかし、時には、弱り果てた友の床を主イエスのもとに運ぶ役割を果たすこともできます。「私自身は、この出来事の中でどこにいるのか」、そのことを考えながら、また私たちに注がれる主イエスのまなざしを感じながら、立川教会の新しい一年の歩みを重ねてまいりたいと思います。
立川教会牧師 保科 けい子
