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6月第2週の礼拝説教
■日 時:2025年6月8日(日)10:30~11:30聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:使徒言行録2章1~11節(新約P214~215)
■説教題:「 神の偉大な業 」
■讃美歌:3( 扉を開きて われを導き )343( 聖霊よ、降りて )
キリスト教をあまり知らない人に「ペンテコステ」ということを語っても、あまり理解していただけないかもしれません。クリスマスやイースターとは違い、教会が誕生したことを覚える日といっても、あまりなじみがないからです。しかし、教会にとっては、あるいは信仰者にとっては、本当に深く考えなければならない大切な日なのです。使徒言行録は、主イエス・キリストの十字架と復活、そして昇天の後、主イエスを信じる信仰者の群れである教会がこの世に誕生したこと、その最初の教会の指導者であった使徒たちがどのように伝道をし、主イエス・キリストを信じる信仰がどのように広まっていったかを語っています。1章では、その活動が開始される前段階の様子が記されています。ルカによる福音書の結びである24章の最後の部分と多少の重複が見られます。復活された主イエスが、弟子たちに対して、あなたがたに間もなく父が約束して下さっている聖霊が降る、それによってあなたがたは力を受け、地の果てまでわたしの証人として派遣されていくと言われたのです。ですから、弟子たちは共に集まって心を合わせて祈りながら、その聖霊の降るのを待っていました。
使徒言行録の2章は、約束を信じて待っていた弟子たちに聖霊が降ったことを語っています。1節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。「五旬祭」と訳されている元の言葉は「ペンテコステ」です。それは「五十日目」という意味の言葉です。これは、元々はユダヤ教のお祭りの日で、過越祭という祭りの翌日から七週目に行われるので、「七週祭(しちしゅうさい)」とも言われます。その年に初めて刈り入れる小麦を捧げる感謝のお祭りです。主イエスが十字架に架けられたのが「過越祭」の時でした。そして、「五旬祭」の日に、約束の聖霊が一同の上に降ったのです。その様子が2節に記されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。神様の霊はよく風にたとえられます。特に、旧約聖書では神の霊がおられることを表す時に用いられる表現です。この箇所を何度も読んでいると、旧約聖書の最初の書物である創世記の冒頭部分が思い浮かんできます。私たちの読んでいる新共同訳の聖書では、創世記1章2節は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」と記されています。「霊」と訳されている言葉は、「風」という意味でもあります。聖書では、旧約でも新約でも、「霊」と「風」は同じ言葉なのです。ですから「神の霊」は「神の風」とも読めます。そして、この箇所は「暴風が水面を吹き荒れていた」と訳すべきではないか、と考えている方もいます。ですから、使徒言行録で「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」と記されている場面は、聖霊なる神がその場所に集っている人々に、ご自分が来られたことをはっきりと知らせて下さったと考えることもできます。風は私たちの目に見えません。しかし、吹いて来る音は確かに聞こえますし、私たちの感覚に直接働きかけます。ですから、使徒言行録2章2節のように「激しい風が吹いて来る」ならば、「彼らが座っていた家中に響いた」のは、当然のことだったでしょう。また、「風」は日本語でも新しい出来事が起こることを象徴して、「新しい風が吹く、風向きが変わる」などのように用いられる言葉です。神様の霊、聖霊が、新しい風として吹きつけ、弟子たちの間に出来事を起し、彼らを新しくした、それがペンテコステに起こったことだったのです。 3節には「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。教会によっては、「炎」を赤い色と見立て、ペンテコステ礼拝には何か赤い色のものを身にまとったり身に着けたりして集いましょう、と呼びかけられているそうです。また、「炎」を創世記1章3節で見るならば、神様が語られた「光あれ」と並べて考えることができます。創世記では、光があったことにより、混沌と暗闇の世界に一つ一つ秩序が整えられていく様子が描かれています。そうすると、使徒言行録で「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と描かれているのは、主イエスを失って、まるで混沌と暗闇の中に彷徨っている弟子達に、光ある新しい道筋を示し、その行く手を指し示すことだったのではないでしょうか。そして、「炎のような舌」という言葉で表現されているのは、神様からの炎が弟子たち一人一人の舌となって、つまり「語る」力として与えられたということでしょう。だからこそ、4節には「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言われているのです。聖霊の風が激しく吹き神様の炎に焼かれて、弟子たちは言葉を語る者として新しく生かされていった、それがペンテコステの出来事であったのです。ここで誕生した教会がやがて全世界へと広がっていき、今日の私たちの教会もその広がりの中にあります。そして、その教会の礼拝に集っている私たちもまた、聖霊の働きによっていつも新しく生まれ、隣人に語る言葉を与えられて歩み続けているのです。 |
5節以下にその時の様子がより詳しく記されています。当時のエルサレムにはあらゆる国から帰って来たユダヤ人たちが住んでいたようですが、その人々が、「自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」のです。ユダヤ人は当時、既にあらゆる国に散らされて住んでいましたが、そのような外国生まれのユダヤ人でエルサレムに帰って来て住んでいた人々が自分の生まれ故郷の言葉を聞いたというのです。それは、9節以下に記されているように、当時の地中海世界のあらゆる地域に及ぶものでした。もちろん、弟子たちはそのようないろいろな国の言葉を学んだ人々ではありません。そういう人々が学んだこともない外国語を突然しゃべり出した、そういう奇跡が起ったのです。聖霊の力によって、様々な国々の言葉で語ったのです。ですから、7節に「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか』」とそのときの様子が描かれているのです。もちろん、その内容は主イエス・キリストのなさった御業や十字架の出来事と復活という「神の偉大な業」であったのです。当然のことながら、この奇跡はこの時のみの一時的なものだったでしょう。なぜなら、この後の弟子たちが外国語を駆使してそれぞれの国で華々しい伝道をしていった、ということは語られていないからです。むしろ、使徒言行録の描く全世界への伝道は、困難や苦しみを伴う地道な歩みによってなされていったのです。だからこそ、この出来事もまた「神の偉大な業」であったのです。
もう一つ、このペンテコステの出来事には大切な意味があると言われています。旧約聖書の創世記の11章の「バベルの塔」の物語と深く関わりがあると考えられているのです。バベルの塔の物語は、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と書き出されています。そのような人々が、「『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』」と言いながら作業を始めます。そのことは、人間が神様の領域にまで侵入し、自分たちを高めて力を及ぼしていこうとすること、言い換えれば、人間が神に成り代わろうとすることを象徴していると言われています。主なる神は、人間のそのような営みと思いをご覧になり、人間の言葉を混乱(バラル)させ互いの言葉が聞き分けられないようになさったのです。それによって人間は全地に散らされていき、それぞれの違う言葉を語りつつ生きるようになったと記されています。そういうわけで、このバベルの塔の物語は、この世界に様々な違う言葉があり、違う言葉を語る者の間での意思疎通が困難であるという現実を語っていると言われています。人間が神に成り代ろうとした時に、人間同士の言葉が通じなくなり、コミュニケーションが失われ、共に生きることができなくなる、という深い問題を示しているのです。そのような世界に時が満ちて聖霊が降り、教会が誕生しました。そこでは、バベルの塔の出来事とは反対に、異なる言葉を語っていても意思の疎通ができるということが起こり、この問題の解決の方向が示されている、それがペンテコステの深い意味であると言われています。それは、単純にみんなが同じ言葉を話すようになったということではなく、言葉の違う人々が一つになり、同じ主イエス・キリストの十字架と復活による神様の救いの恵みを聞き、それをまた他の人々に語ることができるようになったということです。そのことを、私たちもまた深く信じることができるように、聖霊の働きを祈りましょう。
立川教会牧師 保科 けい子