◆立川教会の定例集会の案内
【毎日曜日】
・教会学校(幼児・小学生対象):8:30-9:00
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・主日礼拝:10:30-11:30
【毎水曜日】
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1月第2週の礼拝説教
■日 時:2025年1月12日(日)10:30~11:30降誕節第3主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マタイによる福音書3章13~17節(新約P4)
■説教題:「 天が開いた 」
■讃美歌:20(主に向かってよろこび歌おう)280(馬槽の中に うぶごえあげ、)
昨日の朝は、今年になって最低気温を記録したかもしれません。この会堂の温度は2℃まで下がりました。私が立川教会にまいりましてから、たぶん2,3回は外の水道管が凍り付いて洗濯機が使用できないことがありましたので、これからもまだ寒くなるのではないかと、少し心配です。けれども能登半島などでは、地震と豪雨で被災された方々の中には、ストーブを焚いても4.8℃というビニールハウスの中で、先行きが見えない暮らしを余儀なくされている方もおられるという報道がありました。心が痛みます。私たちはかつて、雪国の富山県高岡市で約10年、寒さが骨にしみると言われる仙台で9年、全身を冷たい水に浸しているような盆地の寒さの冬を福島の中通りと呼ばれるところで6回過ごしてきましたので、日差しの明るい温かな昼間があるということが当たり前の毎日を過ごしていることが後ろめたいような思いがいたします。
ところで、今年の日本キリスト教団の聖書日課を先のほうまで見ていくと、マタイによる福音書を中心に選ばれているようです。ですから、おおよそのところはそれに従って、マタイによる福音書を丁寧に読んでいきたいと思っています。クリスマスでイエス・キリストの誕生をお祝いし、異邦人の占星術の学者によってその誕生が明らかになったことを私たちは見てきました。しかし、イエスという子どものその後の消息については、ガリラヤのナザレという町に両親と住んだということ、12歳になった時に両親と過越祭を祝うためにエルサレムに上ったことぐらいしか、福音書には記されていないのです。そして突然、本日の箇所マタイによる福音書3章13節で「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。」と姿を現されるのです。そういうわけで、本日の箇所3章13節からは「イエスの公生涯」と呼ばれる内容が繰り広げられていきます。ルカによる福音書3章23節には「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。」と記されていますので、一般的には、30歳ごろに世の人々の前に姿を現されたと考えられています。13節の初めに「そのとき」とありますが、「そのとき」とは洗礼者ヨハネが悔い改めるように人々に告げ知らせ、そのしるしとして洗礼を授けていたまさにそのとき、ということです。洗礼者ヨハネのうわさはガリラヤまで伝わっていたのでしょう。イエス様は洗礼者ヨハネのことを聞いて、いよいよ御自分の時が来たことを悟られたのだと思います。そのことは、イエス様も洗礼者ヨハネの働きに、マラキ書3章23節の「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」という預言を見ておられたということを示していると思います。イエス様は何をしにヨハネのところへ来られたのか、マタイによる福音書は「彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである」と記しております。このことは、「主イエス・キリストの救いのしるしであるバプテスマ」を「父、子、聖霊のみ名」によって受ける私たちにとって、驚きではないでしょうか。そして、このことを誰よりも驚いたのが、洗礼者ヨハネであったのです。
14節に次のように記されています。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。なぜ、ヨハネは、イエス様が洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたのでしょうか。それは、イエス様こそ、ヨハネの後から来られる、ヨハネよりも優れたお方であったことを瞬時に悟ったからです。ヨハネは本日の箇所の直前の11節、12節で次のように言っています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。そのようなお方であることを悟ったがゆえに、ヨハネは、私たちの分かりやすい言葉で言えば、「私のような者が、あなた様に洗礼を授けることなど、とても恐れ多くてできません」と丁重にお断りをしているのです。ヨハネは悔い改めに導くために水で洗礼を授けておりますが、後から来られる方は、聖霊と火で洗礼を授けられる本当の救い主であるということを、彼自身が十分に知っていたのです。ですから、ヨハネは「私こそ、あなたから聖霊と火で洗礼を受けるべき者です。そのあなたがわたしから水で洗礼を受けるのですか」と言ったわけです。しかし、イエス様はこうお答えになりました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」。イエス様は、御自分がヨハネより後から来られる優れた者であること、聖霊と火で洗礼を授ける者であることをここで否定してはいません。ヨハネの言葉をもっともな言葉として受け止めつつ、「今は、止めないでほしい」と言われるのです。なぜなら、「正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいこと」であるからです。この箇所を元の言葉でみると、「すべての正しいことを成就するのは、私たちにふさわしいことである」と記されています。ここでの「正しいこと」とは「神の御前に正しいこと」という意味です。ヨハネはそのように受け止めることができたのでしょう。ですから、彼はイエス様の「言われるとおりにした」のです。
16節、17節にまいりましょう。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。と記されています。本日の説教題を「天が開いた」としましたのは、ここでの光景が、私たちの時の流れの中に天が開いて神様の時が入ってきたということを、私たちがしっかりと受け止めたいからです。クリスマスの出来事も、神様の時がこの世の人間の時に接近し、独り子を真の人間として降されることによってこの世界に介入されるということである、と申し上げたような気がするのですが、ここでは、30歳になられたイエス様が、その出来事を「天が開いて神の霊が鳩のようにご自分の上に降ってくるのをご覧になる」という仕方で、受け止められたということを語っているのです。このことは、イエス様をメシア、すなわち救い主として任職された光景と言えましょう。メシアとは「油注がれた者」という意味でもあります。旧約聖書時代のイスラエルにおいては、王に任職する人の頭に油を注ぐという儀式を行いました。油は神の霊である聖霊を表しており、それによって王となる人に聖霊が与えられたことを表したのです。この王に油を注ぐという儀式は預言者や祭司によって執行されましたが、ここでは、神様が天を開いてイエス様に神の霊を注がれたのです。先ほど、詩編の2編をご一緒に交読いたしました。この詩編はまさに、「油注がれた王」を歌い、その王の即位を歌っている詩編なのです。詩編2編の7節には「主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」と記されていますが、マタイによる福音書ではそれを踏まえているのでしょう、17節で「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」と、主なる神が宣言されたことを記しています。いよいよ、ここから、主イエスは油注がれた王として、真の救い主として、この世界に歩み出されたのです。私たちもまた、この箇所を読むときに、私たちの前に天が開いて、主なる神様の霊が主イエスの上に降って来られる光景を心に描きましょう。そして、その聖霊を受けられた主イエスが、私たちの救い主であることを改めて信じてまいりましょう。
立川教会牧師 保科 けい子