お知らせ

 皆様、お元気でいらっしゃいますか?
お知らせがあります。
月に一度、第4週に開催している「青年の夕べ」の予定です。

◆1月24日(日)➡コロナ禍のため4月に延期します。
※第4週以外の週になりますが、日時は決まり次第、改めてお知らせします。

◆2月28日(日)➡予定通りに行います。
◆3月28日(日)➡予定通りに行います。

なお立川教会では、諸集会を以下のように行っています。

① 主日礼拝(10:30-11:30):ライブ配信を受信出来る方は、オンラインでの礼拝に切り替えています。受信出来ない方や、オンライン礼拝になじまない方は、健康に十分注意しながらこれまで通り出席して礼拝を守ります。

② 聖書研究・祈祷会(毎週水曜日19:00-20:00):2月末まで休会です。

③ ジュニア礼拝(9:15-9:45):平常通りです。

④ 夕礼拝(19:00-20:00):平常通りです。

◆2021年1月第4週の礼拝予告
■日時:2021年1月24日(日)10:30-11:30降誕節第5主日
■場所:立川教会
■説教題:「終末の訪れの中で起こること」
■聖書:マルコによる福音書13:1-13(新p88)
■讃美歌:120「主はわがかいぬし」・579「主を仰ぎ見れば」

 ◆今週の聖書日課(1/18-1/23)【日本基督教団「日毎の糧」(2021)から転載】

1/18(月)【主の日は闇、光ではない】アモス書5:16-24詩編96編
テモテへの手紙一6:1-10

1/19(火)【安逸をむさぼる者らは】アモス書6:1-8詩編97編
テモテへの手紙一6:11-21

1/20(水)【荒らされ、廃墟になる】アモス書7:1-9詩編98編
テモテへの手紙二1:1-14

1/21(木)【土地から連れ去られる】アモス書7:10-17詩編99編
テモテへの手紙二1:15-2:13

1/22(金)【もはや見過ごせない】アモス書8:1-12詩編100編
テモテへの手紙二2:14-26

1/23(土)【その日、廃墟を建て直す】アモス書9:7-15詩編101編
テモテへの手紙二3:1-17

主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法

https://www.facebook.com/tachikawachurch/live

にアクセスします。
(お気に入り登録をしておくと、その都度URLを入力しなくも済みます。)

※Facebookユーザーでなくても、礼拝の視聴は可能です。
※Facebookユーザーでない場合、「ログイン」または「新しいアカウントを作成」の画面表示が出ますが、ログインや新しいアカウントを作成しなくても視聴することができますので、無視して問題ありません。
※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。

◆2021年1月第3週のメッセージ
■日時:2021年1月17日(日)
■場所:立川教会
■説教題:「最も重要な掟と一人の貧しい女性」
■聖書:新約マルコによる福音書12:28-44(新p87)
■讃美歌:197「ああ主のひとみ」・403「聞けよ、愛と真理の」

お早うございます。

コロナの感染拡大が、深刻な事態を引き起こしています。罹患しても、入院出来ず、自宅待機となり、そのため命を落した方が出ています。

以前から懸念されていた医療崩壊が現実となり、命の選別が始まりました。

命に、尊い命とそうでない命があるはずはありません。しかし、助かる見込みが大きい人とそうでない人への対処の仕方が変わり始めています。

この現実をしっかり踏まえ、ますます厳しくなるであろう事態の推移に目を留めながら、冷静さを失うことなく、又互いを思いやって誰をも非難せず、感染拡大を防ぐため出来る限りの努力をして行きたいと思います。

コロナに罹患した方だけではありません。都立病院がコロナの専用病棟となるため、それまで入院していた方が転院を余儀なくされています。その方々の不安も大きなものがあり

ます。

どこを見ても、四方八方、困難な課題が横たわっています。

私たちに出来ることを探しつつ、神様への祈りを続けたいと思います。

それでは、今日与えられた聖書の御言葉に聴きましょう。

今日は、慰めと希望を見出せる話が語られます。

それは、冒頭の28節から34節の御言葉です。

28節。

28:彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

イエス様が、祭司長、律法学者、長老たちと論争し、又直前のサドカイ派の人々との論争でも見事に答えられたのを見ていた一人の律法学者が、皆の見ている前で進み出て、イエス様に尋ねます。それまでのイエス様の語られる言葉に心を引かれたのだと思います。

その問いは、当時すでに600を超えていた人々の守るべき掟(613箇条)、戒めの中で、どれが一番大切であるかとの問いでした。

29、30節です。

29:イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。

30:心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

イエス様は、旧約の申命記第6章4節と5節に記されているこの御言葉を上げ、第一の戒めとします。そして、さらに続けるのです。31節です。

31:第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

第二の掟、これはレビ記第19章18節に記されている御言葉でした。

イエス様は、どれが一番大切であるかの問いに対し、一つではなく、二つを上げるのです。第一の戒めと共に第二の戒め、即ち神を愛することと隣人を愛することを上げました。つまり、この二つは別々の戒めではなく、二つにして一つ、どちらかが欠けても成り立ち得ないものとして「この二つにまさる掟はほかにない」と告げられます。

ここで私たちが考えたいのは、神を愛するとは具体的にどのようなことか、隣人を愛するとはどのようなことかと言うことです。

イエス様は言われます。

神を愛する、それは、神様を「唯一の主である」として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽し、力を尽くして、あなたの神である主を愛」することであると。

即ち、己の全身全霊を尽くして神様を愛すること、それは礼拝することを意味しています。

神様を賛美し、神様に祈り、神様の御言葉を聴くことです。そのことに、全身全霊を献げることです。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」との十戒の第4戒で命じられたように、週に一度、必ず神様の御前に立ち、造り主を覚え、その御声に耳を傾けよとの戒めです。

いついかなる時においても礼拝を守る。それこそが「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛」することを意味します。

しかし、いかに誠実に第一の戒めを守ろうとも、それだけでは不十分であると言うのです。

神を愛すると共に、隣人を愛することを神様は求められていると言うのです。

隣人を愛する。隣人を自分のように愛することをイエス様は求められました。

自分のように愛するとは、何かです。

それは、私たちは何をさておいても、自分に関わることを最優先するように、隣人のことを第一に考えて行動すると言うことです。

そんなことが出来るでしょうか。

しかし、イエス様は、それが第二の掟であると言われました。

この二つこそ、全ての戒めの中で最も大切なものであると。

それは、この二つの戒めに生きることが、神の国を先取りすることを意味しました。

すると32、33節です。

32:律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。

33:そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

この律法学者の答えは驚きでした。

イエス様の答えられた内容そのものに彼は「然り、アーメン」と受け入れたからです。

当時のユダヤ教社会において、律法学者が例に出した「焼き尽くす献げ物やいけにえ」とは、神様に礼拝を献げる際に無くてはならぬものでした。これらの献げ物なくしては、神殿で礼拝をすることは出来ません。つまり、ユダヤ教を信じる人々にとって、生きるために息をする、その息にすら匹敵するのが献げ物でした。ですから、どれほど貧しい人であっても、最も安く売られている雀や鳩を買ってでも献げ物を携え、神殿で礼拝をしたのです。

神殿では、献げられた動物を残ることなく焼き、その香りを天に昇らせ、神様への献げ物としました。又、いけにえの動物の血を祭壇に流し、献げた人の罪の贖いとしていました。

それほどの大切な「焼き尽くす献げ物やいけにえ」です。そして、律法学者の務めは、それらの献げものや犠牲がもたらす意味を人々に教えることでもあったのです。

自らが拠り所として来た律法の神殿での礼拝形式を否定し、イエス様が言われたことに「先生、おっしゃるとおりです」と答えた律法学者に対し、イエス様は語られます。34節前半です。

34a:イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。

「神の国から遠くない。」

神の国はあなたのすぐ近くに来ていると賞賛しました。

そして、

34b:もはや、あえて質問する者はなかった。

マタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも、この問答の記事は出て来ます。

しかし、32節から34節の律法学者の答えを載せているのはマルコだけです。

マルコは、イエス様に対する弟子たちの無理解の様子をこれまで何度も記しています。

又、祭司長、律法学者、長老らイエス様への敵対勢力に対して、妥協することはなく厳しく批判しています。そのような中で、まさに、例外的にただ1ヶ所、ここでは一人の律法学者を賞賛しているのです。イエス様を取り囲む暗闇の勢力の中に輝く一筋の光ともなる彼の信仰でした。

次に、35節から37節です。

35:イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。

36:ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。

『主は、わたしの主にお告げになった。

「わたしの右の座に着きなさい。

わたしがあなたの敵を

あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

37:このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

人々が期待したメシア、救い主とは、ローマの支配から人々を解放する者、ダビデの系譜に連なる者でした。律法学者たちもメシアとはそのような存在であると理解していました。しかし、神様から遣わされたイエス様は、地上の王国を建設するために来たのではありません。十字架に架かり、その死によって人々の罪を贖う者として来られました。御自身がメシアとして神様から遣わされた意味をもう一度人々に理解させるために語られます。

続く38節から40節。

ここでは、再び、律法学者への批判と人々への警告がなされます。

38:イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

39:会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

40:また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。

38節の長い衣とは、人々が着ている普通の上着ではなく、ターリスと呼ばれるほとんど足まで覆ってしまう上着で、彼らの権威の象徴となっていました。又広場で挨拶されるとは、町の真ん中の人々が集まり、行き交う場所で、儀式的な長い挨拶を受けることです。

40節の「やもめの家を食い物にし」とは、律法において保護され、守られるべきと定められている夫を失った女性の弱みに付け込み、依頼事に対して法外な謝礼を要求して自分の懐を肥え太らせることなどを意味します。

マルコは、このように、律法学者への批判を再び展開しつつ、最後に1人の貧しい女性の

献金の話しを記すことによって、イエス様の受難の話しに入って行きます。

41節から44節です。

41:イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

42:ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨2枚、すなわち1クァドランス

を入れた。

43:イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

44:皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。

42節のレプトンと言うのは、ギリシャの最少貨幣であり、クァドランスと言うのは、ロ

-マの最少貨幣です。1レプトンは1デナリの128分の1。1デナリが当時の労働者1日分

の給与でしたから、2レプトンは労働者が一日働いた給与の64分の1にあたる額でした。

本当にささやかな額の献金です。にもかかわらず、イエス様は、多額の献金をしていた富め

る者の誰よりも、この女性は多くの献金をしたと言うのです。金持ちは「有り余る中から入

れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」こと

がその理由でした。

生活費と訳されている言葉ですが、「所帯(永井)」とも「生命の料(しろ・文語訳)」とも、「生命の支え(柳生)」とも訳せます。いずれにしても、「暮らしに必要なものをすべて」(桜井重宣)、この女性は献げました。(注:『マルコによる福音書説教者のための聖書講解』日本基督教団出版局、p321)

マルコは、なぜ、イエス様が受難に入る直前に、この女性の話しを弟子たちにしたのでしょうか。

マルコが私たちに語ろうとしている事は、3点に分けられると思います。

➀献が物とは何か。

➁女性はなぜこのような献げ物が出来たのか。

③イエス様はなぜこのことを弟子たちに話されたのかです。

ここでイエス様が弟子たちに語ろうとされた大切なポイントは、献げ物とは何かと言う

ことです。それは、女性が明日の生活をも考えることなく、生活費の全てを献げたこととも深く結び付きます。

女性が献げた献金ですが、「生活費」と言う訳ではなく「生命の支え」としたいと思いま

す。女性は、彼女の持っていた「生命の支え」を全て献げました。なぜ出来たのでしょうか。それは、女性にとって、生命の支えは、神様から与えられたものであったからです。それ故に、神様にお返しをしたのです。

私たちの祈りは、「あなたから与えられた物の一部をお返しします」です。しかし、この

女性は、一部ではなく全部を献げました。

問われているのは、献げ物にどのような祈りを込めているかと言うことです。この女性のように、「神様、このレプトンは、あなたが与えて下さいました。明日は、明日を生きるに必要な生命の支えをお与え下さい」との祈りが出来るかどうか、そのことが問われていると思うのです。

主の祈りの、「われらに必要な糧を今日も与え給え」は、今日一日の生命の支えを感謝し

て、明日の生命の支えを信じて生きる者の祈りです。そしてこの貧しい女性の、今日の生命の支えを感謝し、明日の生命の支えを信じて生きる姿は、受難の時を迎えようとするイエス様にとって、今日一日の導きと共に、明日の導きをも信じて生きる姿と重なりました。

私たちも又、この女性のように、今日の、そして明日の、生命の支えが与えられることを信じて、神を愛し、隣人を愛し、生きる者となろうではありませんか。

祈りましょう。

2021年1月18日(月)
立川教会牧師飯島 信