◆立川教会の定例集会の案内
【毎日曜日】
・教会学校(幼児・小学生対象):8:30-9:00
・ジュニア礼拝(中高生対象):9:15-9:45
・主日礼拝:10:30-11:30
【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
現在、旧約聖書を学んでいます。
主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法
https://www.facebook.com/tachikawachurch/live
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※Facebookユーザーでなくても、礼拝の視聴は可能です。
※Facebookユーザーでない場合、「ログイン」または「新しいアカウントを作成」の画面表示が出ますが、ログインや新しいアカウントを作成しなくても視聴することができますので、無視して問題ありません。
※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。
◆日本基督教団立川教会 創立1951年2月11日 主任担任教師 保科けい子
◆〒190-0022 東京都立川市錦町3丁目11番9号 電話/FAX042-523-2023
◆郵便振替 口座名:日本基督教団立川教会 口座番号:00110-1-92251
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◆教会墓地 八王子市南淺川町3079 第二高尾霊園(京王線高尾山口駅下車徒歩20分)
9月第1週の礼拝説教
■日 時:2024年9月1日(日)10:30~11:30聖霊降臨節第16主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:ヨハネによる福音書8章31~47節(P182~183)
■説教題:「 神に属する者 」
■讃美歌:3(扉を開きて)520(真実に清く生きたい)
本日の聖書箇所は、いつものように日本基督教団の聖書日課から取り上げています。そこでは、31節から36節が括弧に入っており、本日の本来選ばれている箇所は37節から47節になっています。それぞれに見出しがついた二つの段落になっていることもあり、取り上げ方を迷っておりました。しかし、47節の御言葉「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」に、二つの段落の御言葉が集約されるような思いがしましたので、少し長めですが8章31節から47節までを選びました。
ところで、一つ目の段落の見出しに「真理はあなたたちを自由にする」とありますように、32節の「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」という御言葉は、ヨハネによる福音書の中でも有名な御言葉であり、よく知られています。キリスト教主義の高校や大学などでは、年間聖句として取り上げられていたり、スクールモットーになっていたりする御言葉でもあります。私自身、この御言葉についての説教も何度か聞き、また文字になっているものを読んだりもしました。その代表的なものを、紹介します。私自身が仙台時代に少し関わりがあった女子大学の大学礼拝で語られた、よく存じ上げている学長による説教の一部です。「大学に入って初めてキリスト教に触れた人も多いと思います。そしてお祈りすることについて抵抗を感じた方もいると思います。一体誰に祈るのか、という問題がまずあります。また、神を信じると自由がなくなる、人生が窮屈になる、と思う人もいることでしょう。神を信じ、神に祈るのは弱い人間がすること、と考える人もいるでしょう。ところが今日お読みした聖書には、『真理はあなたたちを自由にする』と書いてある。神を信じると自由になるというのです。一体これはどういう事でしょう。国立国会図書館という、日本国内で発行されたすべての出版物が収められている図書館があります。この図書館の貸し出しカウンターの壁には「真理がわれらを自由にする」という言葉が銘板として掲げられています。今日の聖書の言葉「真理はあなたたちを自由にする」と、よく似ています。それもそのはず、この銘板の横にはギリシャ語の銘板があり、こちらには今日お読みしたヨハネによる福音書8章32節のギリシャ語がそのまま書かれているのです。日本の国立施設に聖書の言葉が掲げられているというのはとても面白いと思います。この言葉を選んだ羽仁五郎という歴史学者は、『この言葉が,将来ながくわが国立国会図書館の正面に銘記され,無知によって日本国民が奴隷とされた時代を永久に批判するであろうことを,ぼくは希望する』と述べています。国会図書館が設立されたのは戦火まだ覚めやらぬ昭和23年のことです。二度と愚かな戦争を起こさないために真実を知る場所を作ろう!そう誓って国会図書館が作られたことがよく分かります。」。途中を略して、結論らしいところを読みます。「結局のところ、私たちは何物にも縛られないで生きることは不可能です。私たちは究極的には誕生と死のはざまに縛られています。どうせ縛られるのであれば、私たちに命をくださり、私たちの生涯に終わりを与えられる方に縛られてみないか?これが私のメッセージです。今日の聖書は、主イエス・キリストの言葉にとどまり、そのことによって真理を知り、自由になりましょう、と私たちを誘(いざな)っています。」
私自身も、いくつかの高校や大学で、この箇所で同じような話をしたことがあります。しかしよく考えてみると、学びをしようとしている高校生や大学生には、非常にわかりやすく的確な説きあかしであっても、今この時、この御言葉に聞こうとしている私たちに対しては、ヨハネによる福音書は何を語ろうとしているのでしょうか。そもそも、この御言葉は誰に向かって語られているのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。本日の聖書箇所の直前の段落8章24節には、主イエスご自身が「わたしはある」という存在、つまり神ご自身であることを語られたと記されています。そして、8章30節では「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」と結ばれています。そのことを考えると、本日の聖書箇所ヨハネによる福音書8章31節では、前段落の結びを繰り返して「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」と念を押して記していることが分かります。信じなかった人ではなく、信じた人に語られているというのが重要です。その信じた人々に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られたのです。逆に言えば、私を信じると言っても、わたしの言葉にとどまらなければ、私の弟子にならなければ、あなたたちは真理を知ることはなく、不自由なのだと語っておられるのです。この言葉に、せっかく主イエスを信じ始めた人々はつまずきました。なぜなら、主イエスを信じたユダヤ人たちは、自分たちは真理を知っていると思っていたからです。特別に神に選ばれた民である自分たちは神のことを良く知っている、そして、その神こそが真理そのもののお方であることを自分たちは誰よりも知っていると思っていたのです。そのような自分たちが、真理を知らない者であり不自由な存在であるとは全く思っていませんでした。ですから、37節以下では、旧約聖書によって証されている「信仰の父」と呼ばれるアブラハムを引き合いに出して、自分たちはその子孫である特別な存在なのだ、と主イエスに反論したのです。それは、主イエスの言葉を聞いて一旦はそれを信じても、そこにとどまることがなく、本当の弟子にならない人もいることを示しています。同じようなことは既に、このヨハネによる福音書の6章66節にも「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と記されています。
では、主イエスの言葉にとどまるということは、どのようなことでしょうか。それは、知識としての聖書の言葉を知っているとか、信仰についての学びを続けているということではないと思います。そうではなく、主イエスの御言葉に生き続ける、さらに言うならば主イエスの御言葉によって生かされ続けるということではないでしょうか。ヨハネによる福音書は冒頭で、主イエス・キリストは「言」そのものであったと語っています。ですから、主イエスを信じる私たちも「言」そのものに聞く生活をしていくのです。ヨハネによる福音書が一貫して語っているのは、主イエス・キリストは神の独り子であり、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16節)ということです。その独り子であられるがゆえに、主イエスはご自分が父なる神に本当に愛されていることを知っておられます。主イエスは、父なる神に愛されている者としての自由によって、人間となってこの世に来て下さいました。それは、34節に「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と言及されているように、私たち人間が、罪に支配され罪の奴隷となってしまっていることをしっかりと見据えたうえで、そのような私たち人間を罪の支配から解放し自由を与えるために、この世に来られたというのです。父なる神の、私たちに対する憐れみのみ心、私たちを救おうとして下さっている恵みのみ心を、主イエスはその自由によって受け止め、その救いを私たちに与えて下さるために人間となってこの世を歩んで下さいました。それだけでなく、私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架の苦しみと死を引き受けてくださったのです。それを信じて、主イエスの御言葉のもとにとどまりそれをしっかり聞くならば、私たちは、独り子を与えて下さるほどに世を愛して下さった神の愛による救いの真理を知ることができるのです。そして、その真理は私たちを自由にします。私たちも主イエスと共に神の子とされ、父である神の愛を受けて生きる者とされるのです。本日の聖書箇所ヨハネによる福音書8章47節には「神に属する者は神の言葉を聞く。」と記されています。その後で、「あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」という厳しい言葉も記されています。それは当時のキリスト教会やキリスト者たちが置かれていた厳しい状況を反映しているとも思われるのですが、同時にこの御言葉は、今の私たちにも語りかけられています。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」、それはとても美しく私たちに語りかけてくる御言葉です。けれどもそれと同時に、私たちはいつでも、私たちに向けて語りかけている厳しい神の言葉にも耳を傾け、それが聞こえるようにと「神に属する者」として召してくださった恵みに感謝しつつ、歩みたいと思います。
立川教会牧師 保科 けい子