◆立川教会の定例集会の案内
【毎日曜日】
・教会学校(幼児・小学生対象):8:30-9:00
・ジュニア礼拝(中高生対象):9:15-9:45
・主日礼拝:10:30-11:30
【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
現在、旧約聖書を学んでいます。
主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法
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※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。
◆日本基督教団立川教会 創立1951年2月11日 主任担任教師 保科けい子
◆〒190-0022 東京都立川市錦町3丁目11番9号 電話/FAX042-523-2023
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◆教会墓地 八王子市南淺川町3079 第二高尾霊園(京王線高尾山口駅下車徒歩20分)
3月第3週の礼拝説教
■日 時:2024年3月17日(日)10:30~11:30 受難節第5主日礼拝
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:コロサイの信徒への手紙2章6~15節(新約p370)
■説教題:「 キリストにおいて満たされて 」
■讃美歌:299「 うつりゆく世にも かわることない 」460「 やさしき道しるべの 光よ、1~4節 」
本日は、受難節の第5主日になりました。日本基督教団の聖書日課の福音書は、ヨハネによる福音書12章の20節から36節が選ばれていて、既に主イエスがエルサレムにお入りになった棕櫚の主日以降の出来事が取り上げられています。ですから、今朝のジュニア礼拝では、ヨハネによる福音書の12章24節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」という御言葉について、お話ししました。私たちの世代ですと、教会で上映会などをした三浦綾子さんが書いた『塩狩峠』という作品の重要なテーマになっている御言葉であることを思い出します。明治時代の終わりごろに、北海道旭川の塩狩峠で自らを列車の下敷きにして列車を止め、大勢の乗客の命を救った一人の青年の愛と信仰に貫かれた生涯を描いているのですが、その背後にこの御言葉があると言われています。受難節のころに、私の母教会でも教会の伝道集会で『塩狩峠』の上映会があり、会堂に入りきれないぐらいの人が集まりました。その、上映の後で副牧師が涙ぐみながら「ここまで、イエス様の十字架に倣って歩もうとしたすばらしい信仰があると思うと、私の歩みなどはとても足元にも及びません。」と語っておられたことを、昨晩思い出しました。集ってきた多くの方が涙ぐんでおられたと思います。けれども私は、映画を見てもなんとなく醒めた思いになっていたのですが、その時に初めて、当時は口語訳でしたが「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」という聖書の言葉を知りました。後になって聖書をそれなりに読むようになってから、あの時に醒めた思いになってしまった意味が見えてきました。あの頃は、洗礼を受けたものの私自身の日常生活には何の変化もなく、将来に対しての道筋も見えてこず、なんとなく物事や人間関係に対して斜に構える日々を過ごしていました。ですから、周囲の人々が涙を流して感動しているのを見ても、一人の信仰者の美談にすぎないのではないか、という受け止め方しかできていなかったのです。けれども、相当の年月が経ってから、この美しい言葉は、主イエス・キリストの十字架の出来事を主イエス御自身があらかじめお語りなっている受難予告である、ということに気づかされたのです。それ以後、受難節になると、私自身がそのような主イエスの「一粒の麦」としての生き方に倣うことができているかどうかを問われています。本日は、この御言葉もどうぞ心に留めておいていただきたいと思います。
ところで、私が本日の聖書箇所として取り上げたのは、提示されているもう一か所のほうのコロサイの信徒への手紙2章6節から15節です。ところが、コロサイの信徒への手紙そのものを丁寧に読んだという記憶がないので、なかなか、御言葉に入り込むことができませんでした。この手紙は1章の挨拶に「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、2 コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と書き出されています。そして、本日の聖書箇所コロサイの信徒への手紙2章6節にも「あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」と書き出されています。それらによると、差出人は使徒パウロであるかのように思うのですが、時代的にはパウロよりも後にパウロの弟子によって記されたと考えられています。例えば、1章の7節に出てくる実際にコロサイの教会に伝道に行った使徒パウロの弟子のエパフラスなども著者ではないかと言われています。そのような予備知識を持って読んでしまう、中身に対する印象が薄くなってしまいます。しかし、2章6節から15節を読んでそこから1章1節に戻って丁寧に読みだしてみると、1章2節に「キリストに結ばれている」という表現があり、2章6節に再び「キリストに結ばれて」と繰り返されている道筋が見えてきました。ある方は、コロサイの信徒への手紙の全体は、2章6節の「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」ということを告げるために書かれているとさえ述べています。その主イエス・キリストの福音は、使徒パウロから始まり使徒パウロと共に伝道旅行に出かけることの多かった弟子のテモテへ、さらには少し後の弟子の一人であるエパフラスへ、そして、コロサイの教会に集うキリストを受け入れた信徒一人一人へと伝えられていきます。さらには、2000年以上の時を経て、今、コロサイの信徒への手紙を読んでいる私たちへと、主イエス・キリストの福音が伝えられ続けていることの恵みがつながっていることを感じさせられます。
では、そのイエス・キリストとはどのようなお方であるかということが、コロサイの信徒への手紙1章で描かれています。この箇所は、新約聖書の中でも最も神秘的で壮大なキリスト像が描き出されている、と考える方もいます。神の愛する御子であり万物が造られる前に生まれた方、すべてのものが彼によって彼のために造られ、すべてのものの支配者であり権威ある方と宣言されています。そして、何よりも御子はその体である教会の頭であり、御子はすべてのものに先立って死者の中から復活した方、十字架の血によって万物を和解させ、神の平和をもたらした方、と声高らかに賛美しています。そして、使徒パウロ自身は、このキリストのために、キリストの苦しみのなお足りないところを身をもって満たす働きをする者だ、と言うのです。このような土台に立って、キリストに結ばれて歩く生活への勧めがなされています。それは、2章7節によると、キリストに根を下ろした生活、キリストによって造り上げられる生活、信仰をしっかり守る生活、そして、あふれるばかりに感謝する生活です。そして、そのための力が9節、10節に語られています。「キリストの内には満ちあふれる神性が余すところなく見える形をとって宿っており、あなたがたはキリストにおいて満たされているのです」。キリストに結ばれている者は、キリストにおいて満ちあふれる豊かなもの、世界を満たしているものをいただいているというのです。だからこそ、その賜物によって生きることが薦められているのです。
最後に、12,13節で「キリストと共に」と三回繰り返されていることに注目したいと思います。それは、キリストに結ばれることによって、キリストの死と復活が私たちのものとされることを繰り返し語っているのです。受難節からイースターへという時の流れの中で、私たちは、そのことを自分自身のこととして経験していきたいと思います。
立川教会牧師 保科 けい子