お知らせ

夏も終わり、一挙に秋の訪れとなりました。
コロナの感染者数も、確かな減少を見せています。
緊張は続きますが、それでも、少しずつ日常が戻りつつあるのを覚えています。

通常の礼拝、聖書研究・祈祷会、中国語礼拝が再開されました。
但し、聖書研究・祈祷会の時間 帯が変わります。19:30-20:30です。

今回の「お知らせ」は、中川和子さんの奨励と、1週遅れましたが、植松真琴さんの「青年の夕べ」の感話を掲載しました。
共に、本当に素晴らしいものでした。
ぜひ、お読み下さい。
又、ご友人などにもご紹介下さい。

 【今週の集まり】
◆聖書研究・祈祷会 (自由献金を行います。)
■日時:2021年10月27日(水)19:30-20:30
■聖書研究:「ガラテヤの信徒への手紙」第2章
■発表:吉田千鶴子さん

・第1・3水曜日「マタイによる福音書」を1章ずつ学びます。
・第2・4水曜日は、「ガラテヤの信徒への手紙」などのパウロ書簡です。
・第5水曜日は聖書研究ではなく、聖書に関わる自由な語らいの場とします。

◆10月第5週の礼拝予告
■日時:2021年10月31日(日)10:30-11:30降誕前第8主日
■場所:立川教会
■説教:道家紀一牧師(立川からしだね伝道所)
■説教題:「捨てて拾う人生」
■交読詩編51:3-11(p59)
■聖書:ルカによる福音書6:1-11(新約p111)
■讃美歌:201「天使のことばも」・438「若き預言者」

◆中国語礼拝:
■日時:2021年11月20日(土)14:00-15:30
【礼拝】14:00-14:50
■説教:飯島信牧師
■通訳:飯田仰牧師
【日常会話を覚えよう!】14:50-15:30※簡単な中国語の日常会話をその場で覚えます。
■対象:どなたでもお出で下さい。日本在住の中国人・台湾人及び中国語に関心のある方など歓迎です。

◆第14回「青年の夕べ」
 (ワクチン接種を2回終えていない方は、抗原検査にご協力下さい。)
■日時:2021年11月21日(日)17:00-19:45
■場所:立川教会
■感話:湯田大貴さん【会社員】

◆第15回「青年の夕べ」
■日時:2021年12月19日(日)17:00-19:45
■場所:立川教会
■感話:小林詩音さん【フェリス女学院中高英語科教員】

◆第16回「青年の夕べ」
■日時:2022年1月16日(日)17:00-19:45
■場所:立川教会
■感話:鈴木梨沙さん【都内私立中高英語科教員】

◆第17回「青年の夕べ」
■日時:2022年2月20日(日)17:00-19:45
■場所:立川教会
■感話:桐山晋二郎さん【東北学院大学学生】

◆第18回「青年の夕べ」(最終回)
■日時:2022年3月20日(日)17:00-19:45
■場所:立川教会
■感話:林織史さん【製造業】

◆今年度の立川教会の定例集会の案内です。

・教会学校:第1~第3日曜日 8:30-9:00 第4、第5日曜日はありません。
 ※幼児・小学生対象(紙芝居を見ます。)

・ジュニア礼拝:第1~第3日曜日 9:15-9:45 第4、第5日曜日はありません。
※中高生対象

・主日礼拝:毎日曜日 10:30-11:30

・夕礼拝:第1~第3日曜日。但し、第3日曜日は「青年の夕べ」を兼ねるため、時間帯が変わります。第4、第5日曜日の夕礼拝はありません。
 第1・第2日曜日19:00-20:00
 第3日曜日17:00-18:45

・聖書研究・祈祷会:毎水曜日 19:30-20:30

◆今週の聖書日課(10/25-10/30)【日本基督教団「日毎の糧」(2021)から転載】

10/25(月)【ローマの信徒への挨拶】創世記1:1-19詩編2
ローマの信徒への手紙1:1-17

10/26(火)【神の怒りと人類の罪】創世記1:20-2:4a詩編3
ローマの信徒への手紙1:18-32

10/27(水)【神の正しい裁き】創世記2:4b-25詩編4
ローマの信徒への手紙2:1-16

10/28(木)【ユダヤ人と律法】創世記3:1-15詩編5
ローマの信徒への手紙2:17-29

10/29(金)【正しい者は一人もいない】創世記3:16-24詩編6
ローマの信徒への手紙3:1-20

10/30(土)【神の恵み、神の義】創世記4:1-16詩編7
ローマの信徒への手紙3:21-31

主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法

https://www.facebook.com/tachikawachurch/live

にアクセスします。
(お気に入り登録をしておくと、その都度URLを入力しなくも済みます。)

※Facebookユーザーでなくても、礼拝の視聴は可能です。
※Facebookユーザーでない場合、「ログイン」または「新しいアカウントを作成」の画面表示が出ますが、ログインや新しいアカウントを作成しなくても視聴することができますので、無視して問題ありません。
※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。

◆日本基督教団立川教会 創立1951年2月11日 主任担任教師 飯島信牧師
◆〒190-0022 東京都立川市錦町3丁目11番9号 電話/FAX042-523-2023
◆郵便振替 口座名:日本基督教団立川教会 口座番号:00110-1-92251
◆郵貯銀行 預金種目:当座預金 店名:0一九 口座番号:0092251
◆教会墓地 八王子市南淺川町3079 第二高尾霊園(京王線高尾山口駅下車徒歩20分)

◆2021年10月第4週の礼拝奨励
■日時:2021年10月24日(日)10:30-11:30降誕前第9主日
■場所:立川教会
■奨励:中川和子さん
■奨励題:「たれか洩るべき主の救いに」
■交読詩編19:1-7(p24)
■聖書:コリントの信徒への手紙一1:26-31(新約p300)
■讃美歌:402「いともとうとき」・433「あるがままわれを」

今回お話をさせていただくにあたり、何をお話すべきかと悩んで姉に相談したところ、「こんな自分でも生かされている、みたいなことでいいんじゃない?」と返事が来ました。自分でもそういうことになるだろうと思ってはいましたが、姉とは言え、他人から改めて言われるとやっぱりそうなんだ、と少し落ち込みました。

私のどこがそんなにダメなのかと言いますと、一言で言えば「役立たず」なのです。小さい頃から手も足も口も頭もすべて遅いうえに、すべきことになかなか手が付けられない。何をするにも人の何倍も時間がかかります。

そんな私ですが、何度も危ない命を救われているのです。その例をお話しようと思っていましたが、時間が足りなくなりそうなので、いつかの茶飲み話に取っておくことにします。

総括すると、私は「危機一髪」と「渡りに船」の人生を歩んできたように思います。「渡りに船」の方の例を一つ挙げさせていただくと、これまでに引っ越しを5回ほどしていますが、そのうちの3回は、私たちが引っ越し先を探していると知った知り合いが「ちょうどあそこの家が空くけどどう?」と紹介してくれたものです。他の2件も知り合いが見つけてくれたもので、私たちは自分で家を探したことがありません。

このように他の人に支えられ助けられて何とか生きていた私たちなのにちゃんとした

自覚もなく子どもを産んでしまいました。そして、下の子が3歳で自閉的傾向のある発達障害と診断されました。帰宅して姉に自閉の特徴として聞いたことを電話で伝えると「あんたの小さい時と一緒じゃん」と言われ、一瞬「え?」と思いましたが、すぐに「ああ、そうか。そうだったのか。」と納得しました。それまでどうしてこんななのだろうと思っていたことに名前がついた安堵感、とでもいうような感覚でした。こうして障がい者が障がい児を育てる生活が始まりました。

当時通っていた教会には「若葉の部屋」という、子どもと一緒に礼拝を守ることのできる小部屋がありました。多い時には5組くらいの親子がいましたが、その中の3組に障がい児がいました。これもかなりの高確率で、「神さまは越えられない試練はお与えにならないというけれど、私たちは教会に通う者として選ばれたということか」と思いました。その中でも、能力の低い私には比較的軽い子を任せて下さったのかと思います。

もちろん一人で育てられるわけはなく、実家をはじめ、幼稚園や学校の先生方など、色々な方の助けを借りてやっとここまで来ているわけですが、中でも上の子は下の子が生まれて以来ずっとけなげに「障がい児のきょうだい」の役割を担ってきてくれました。

障がい児のきょうだいというのは大変な立場で、積極的にかかわってくれる子もいれば反発する子もいるようですが、娘の場合は弟を小さい頃からかばってくれていました。後年聞いた話なのですが、小学校の頃はいじめられていれば助けに入ってくれることもあったそうです。大学生になると比較的時間が自由になるので、私が仕事で保護者会に行けない時など代わりに行ってもらうこともあり、「若いお母さんだと思ったらお姉さんだったの」と言われることもよくあったそうです。

そのように陰に日向に助けてくれて来た娘ですが、その間ずっと我慢してきたものが心の中にマグマのようにたまり続けていたようで、数年前から仕事のストレスなどの影響か、少しずつ外に出てくるようになりました。時には噴火することもあり、その激しさから初めのうちは反発しか感じなかった私ですが、だんだん娘の言うことが沁みてきて、確かにそうだった、助けてもらうことが当たり前のようになっていた、感謝を表す機会が少なかった、と思うようになりました。反抗期を経験せずに成長してしまうと大人になってからより深刻な問題を引き起こすというようなことが言われますが、まさしくそれだと思います。

それを受けて、私はこれからは娘の心にたまったマグマを流し、空洞を埋めることに力を注ぎたいと思っております。世界中に助けの必要な人はあふれかえっているのに、そんな小さなこと、家族の一人の心の平安を保つためだけに力を使うなどということが許されるのだろうか、という疑問もわきますが、マタイによる福音書25章40節にもあるように、神様は「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とおっしゃいます。世界中の困っている人々に手を差し伸べることは尊い働きですが、誰もがマザーテレサや中村哲さんのようにできるわけではありません。人それぞれ、与えられた力や場に応じて働くことに価値の違いはないと信じたいです。自分が生

きるだけで精いっぱいの私には、最も身近な人の精神を安定させることさえ難しいかもしれませんが、当面はそれを目標に生きていきたいと思っております。

◆第13回「青年の夕べ」感話
■日時:2021年10月17日(日)17:00-18:45
■場所:立川教会
■感話:植松真琴さん(明治学院大学学生)
■主題:「境界を越えて」
■聖書:箴言1:7、マタイによる福音書7:7-8
■讃美歌:英語讃美歌182「I would be true」・294「みめぐみゆたけき」

今回の感話の内容は頭の中にあるのに、ちっともタイトルは出てきませんでした。飯島先生にタイトルを送らなくてはいけない、決まっている内容の方が締め切りは先なのに。そんな割と切羽つまった状況で出てきたのは、この言葉でした。今から2か月ほど前の8月に公演した、自分が所属する大学の演劇研究部、新人公演の作品タイトル。名前を付けたのは自分で、脚本を執筆し演出を行ったのも自分でした。

これしか思いつかない。それってどうなんだ。そんな考えもあったけれど。なんだか思いついたその瞬間腑に落ちてしまい、なぜだか納得してしまいました。そんなわけでこの言葉から私の話を始めます。

世界にはたくさんの境界があると思います。国境などの物理的な境界、人と人の間にある見えない境界など、他にもいろいろあるかもしれないけれど、あえてここでは述べません。

「境界」といえば、コロナ禍を生きる私にとっては『ソーシャルディスタンス』という大きな境界が目下の敵だと感じます。そして、私は最近、「境界」を意識するものとして「問う・問われる」ということを考えさせられます。なぜなら、私の環境はたくさん変化し、境界となるものも増えたけれど、今も昔も変わらず「問い」は私の前にあるからです。

「問い」ということを考える時にどうしても私の中に真っ先に出てくるのは先ほど読んだ「神を畏るるは学問の始め」という聖句であり、その基盤である母校、基督教独立学園です。この言葉は私の高校の講堂棟に刻まれている聖句であり、翻訳は普通の聖書とは異なっています。学校に刻まれている意訳をしたのは、創設者の鈴木先生です。普通の翻訳では「神を畏るるは知恵の始め」となっています。私にとって高校はたくさんのもの、ことを問われる場所でした。

さて、その高校を出て、今の私の「学問」の場は明治学院大学という場所に映りました。今の環境も高校とは全く違うあり方ではあるけれど、本当に大切な時間を過ごさせてもらっています。ただし、私の送ってきた、また送っている大学生活は「通常」「普通」と言われてきたものとは大分、違います。

2020年度入学というコロナウィルス感染症流行始めに当たった私の学年は、オンライン授業を余儀なくされてきました。そして、そんな私の学年、そして私自身に向けられる評価や感想、言葉は結構世知辛いです。

「かわいそう」「残念だったね」「大変だ」

そんな言葉を何度かけられたことでしょう。見知らぬ人から、知人から、親戚から。もちろん、これらの言葉が嘘だとは言いません。でも、それだけじゃないんだと言わせてほしいと度々思って来ました。そして、最近、これらの言葉に「同意」するのを私はやめることにしました。

オンライン授業は確かに対面授業のように人と会う事はないから、友達はできにくいかもしれません。履修や授業課題に苦労するかもしれません。でも、一限への登校のために朝早く起きる必要性はないし、授業の中で分からないところやノートの取り切れないところがあれば、動画を何度も見返すことや止める事が出来ます。オンライン授業なら、どこにいても学ぶことが出来るから、本来通学時間である時間を別のことに使うことも出来ます。事実、私はそのおかげでライター仕事をしていますし、脚本を書く時間もあります。自分の好きな事を学ぶことも出来ています。対面授業にもちろん期待もあるけれど、どちらがいい、悪いは決められないと思うのです。

私は正直言葉だけならいくらでも私のような大学生に対して、好き勝手言えると思います。こういうと皮肉や嫌味のようですが、そう思われても構わないと思うほど、当事者である私はそう感じる事は多いのです。優しいことは良いことだけど、その優しさから生まれた善意は、時に悪意より強力に私の心をえぐっていく。ニュースやデータを根拠にして、それだけを見て同情して優しくすることは簡単です。また、事実そうしている人、こういう言葉を無意識的に言っている人は多いと思います。しかもそれはとても強く大きな「優しさ」の上で。「大学行けてなくてかわいそうだね」「オンライン授業なんて大変でしょう」。そんな言葉をかけてくれる人はひどく優しいです。それに私は「そうだね」と同意して笑って、現状を現状のまま流していれば、優しい『誰か』は喜ぶのかもしれません。でも、テンプレートだけのそんな綺麗事、優しさはもう、いらないんです。

私は当事者で今ここに生きています。他の誰でもなく、大勢いる大学生の一人ではない、『植松真琴』という人間で生きています。そして、私の周りにはそんな私を認めてくれていて、一緒に楽しい事をしてくれる仲間や友人もいます。たくさんの出会いがあって、関わってくれる人もたくさんいます。学ばせてくれる人もいて、直接的なものではないかもしれないけど、自分の人生を豊かにしてくれる存在もちゃんとあります。それも『真実』です。それを握りしめて生きていたいと強く思います。

今、過ごしている世界は確かに『大変』なのかもしれません。確かに苦しいこともあります。残念に思ったことだって、両手両足あっても数え足りません。私のような大学生に向けられる言葉はある意味、正しいです。正しいからこそ、悔しくもなります。でも、そういう

同情で作られた言葉で片付けられる感情は、身に染みる程、とっくの前に体験して、理解した後なんです。

今だからこそ思います。それがなんだ。なんだっていうんだって。

そんな世界なのはもう心の底から、骨の髄まで理解したんです。だから、私はその境界を越えることを考えたい。越えたいと強く思うのです。越えるためのあり方を模索して、もっと先の未来に踏み出そうとしていたいし、そのために今自分のいる場所で踏ん張っています。

笑われてしまうかもしれないし、「そんな話こそ理想論だ」「綺麗事だ」と言われてしまうかもしれません。その言葉が全てになんかなるわけない、と言われるかもしれません。それも事実としてあるでしょう。だけど、こんな風に考える、私みたいな人間がいたっていいと思いませんか。今、この時、持っている思いを大切にしたい人がいてもいいはずだと、私は思っています。

そして、有難いことに私はそんな風に自分の好きなように生きるための環境や術もちゃんと与えられていて、持っています。具体的な仕事もあって、その中でもライター仕事は私にたくさんの出会いをくれて、話を聞かせてくれています。問いかけをさせてもらっています。コロナ禍でありながらも様々な活動をされている方の声は私の探しているあり方や生き方をとても動かしてくれています。学びたいことも、問いたいことも、好きなことも、共にいてくれる大切な人たちも、それらを与えてくれた神様に感謝したいものが山ほどあります。だから、少なくても今はこの気持ちや考えを大切にして、与えられた場所の中でたくさんのものを吸収していきたいと思います。

話は少し変わって。

私が高校三年目に一年をかけて校長先生と一対一で学んだ「後世への最大遺物」から今の自分に通じる言葉、よく𠮟咤激励されている言葉を紹介します。筆者は私の母校である基督教独立学園の創立者の師匠にあたる内村鑑三先生です。彼はこの作品の中でこんなことを言っています。

【引用】

それなら最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことの出来る、そうしてこれは誰にも遺すことの出来るところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことの遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世

の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。

【中略】

たびたびこういうような考えは起こりませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享うけ、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。もし私に金がたくさんあって、地位があって、責任が少くして、それで大事業ができたところが何でもない。たとい事業は小さくても、これらのすべての反対に打ち勝つことによって、それで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのである。種々の不都合、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業ではないかと思う。それゆえにヤコブのように、われわれの出遭であう艱難かんなんについてわれわれは感謝すべきではないかと思います。

内村先生は「不都合がない」とは言っていません。「不幸がない」「不足がない」「反対がない」とも言っていません。そのようなものがある世の中であっても、そんな世界をどんなものであるかを信じるのかが大事だといいます。それらのものに「打ち勝つ」ことこそ、大切だといいます。

私は、今こそその時だと思います。

コロナ禍で、苦労、悲しみ、大変さ、自分の生きている時間の不都合、それに対する自分の生き方への反対を味わってきました。今も少しそれらは続いて居ます。でも、そんな私だから、それらに打ち勝つことが出来ます。そんな私だから、世界は本当に面白くなります。そのことに誇りを持ちたいです。誇りを持って、自分の生きてきた時間を、過ごしてきたあり方を、ちゃんと自分の人生として携えていたいと思います、今も、この先も。そして、その人生を願わくば後世に遺したいとも、少しだけ胸の奥底の野望として持っています。

最後に、最初に読んだ聖句に話は戻ります。

「求めよ、さらば与えられん。探せ、さらば見つからん。門を叩け、さらば開かれん。」

私の始めはここからです。

もっともっとたくさんのものを求めて生きます。大学ではやっぱりとことん学びたいです。共にいたいと思う人を探します。そして、出会ったからには門を叩いて、その中に「門」という境界を越えて、中へと入っていきたいです。大変なのは百も承知で、それでも自分の人生は大切にしたいです。これまで送ってきた人生が本当に豊かなものだったので、神様が絶対に導いて、時には叱って、時には共に立ち止まってくれると信じています。どんな日も等しく、私の日々として、神様から頂いた時間を心から大切にしていきます。

同情や憐み、大変さ、不幸に不便、不安、不満、反対、そんな不都合に塗り固められてたまるものか。従ってなんてやるものか。問いかけていく。絶対に流すのではなく、ちゃんと聴きたい。話したい。学びたい。そのための努力を惜しまないで生きていたい。勇ましく、たくましく生きたい。少しずつではあるかもしれないけれど、不都合に打ち勝ちながら、それらのような「境界」を越えて、今私の与えられた生きる時間で、今私の与えられた場所で、大切に日々を生きていきたい。

2021年10月27日(水)
立川教会牧師飯島 信

9月第1週の説教

■日時:2021年9月5日(日)
■場所:立川教会
■説教題:「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
■聖書:新約ローマの信徒への手紙12:9-21(p292)
■讃美歌:520「真実に清く生きたい」・566「むくいを望まで」

8月第5週の説教

■日 時:2021年8月29日(日)
■説教者:齊藤 篤(日本基督教団深沢教会)
■説教題:「『である』ということ」
■聖 書:マタイによる福音書5:13-16
■讃美歌:425「こすずめも、くじらも」・509「光の子になるため」