お知らせ

◆立川教会の定例集会の案内
【毎日曜日】
・教会学校(幼児・小学生対象):8:30-9:00
・ジュニア礼拝(中高生対象):9:15-9:45
・主日礼拝:10:30-11:30

【毎水曜日】
・聖書研究・祈祷会: 10:30-11:30
 現在、旧約聖書を学んでいます。

主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法

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※Facebookユーザーでない場合、「ログイン」または「新しいアカウントを作成」の画面表示が出ますが、ログインや新しいアカウントを作成しなくても視聴することができますので、無視して問題ありません。
※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。

◆日本基督教団立川教会 創立1951年2月11日 主任担任教師 保科けい子
◆〒190-0022 東京都立川市錦町3丁目11番9号 電話/FAX042-523-2023
◆郵便振替 口座名:日本基督教団立川教会 口座番号:00110-1-92251
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◆教会墓地 八王子市南淺川町3079 第二高尾霊園(京王線高尾山口駅下車徒歩20分)

4月第4週の礼拝説教
■日 時:2024年4月28日(日)10:30~11:30 復活節第5主日
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:ヨハネによる福音書15章18節~27節(新約p199)
■説教題:「 真理の霊が来るとき 」 
■讃美歌:355「 主をほめよ わが心、」393「 心を一つに 平和を求め、 」

4月25日(月)の朝日新聞の「折々のことば」にマルティン・ブーバー著『我と汝・対話』(植田重雄訳)から、「エーテルの波はつねに送られているが、しかし、われわれはたいてい、受信機を外しているのである」という言葉が取り上げられていました。その言葉について、哲学者であり評論家でもある鷲田清一氏が次のように解説しています。「生きているというのは『語りかけられている』ことだと哲学者は言う。その語りはじかに私に向けられたものでも、人の声でないかもしれないが、紛れもなく私に、応答することを求めている。なのに私たちは、『甲冑で身を固め』この言葉の芽を摘むという『怪物的行為』に耽ってばかりいると。」マルティン・ブーバーの名前を久しぶりに目にしました。最近になって持っている本をどんどん処分しているので、この文章を直接確認することはできませんでした。しかし、パソコンで検索をすると引用された本の該当する箇所がヒットしました。それは次のような文章です。

「われわれはみな、甲胃を身にまとい、われわれに生ずるしるしを近づけぬようにしている。しるしはたえず生じている。生きていることは、語りかけられていることであり、われわれはただこのしるしに立ち向かい、これに耳を傾けることだけが必要である。(中略)語りかけのしるしは特別なものではない。事物の秩序からはみ出しているようなものではない。それはいつも生ずるものであり、いずれにしても元来生じているのであって、語りかけによって何かが新たにつけ加わるわけではない。エーテルの波はつねに送られているが、しかし、われわれはたいてい、受信機をはずしているのである。」

マルティン・ブーバーの思想は、「我」と「汝」が語り合うことによって世界が拓けていくという「対話の哲学」と位置付けられています。ブーバーは、19世紀の終わりから20世紀にかけて活躍した宗教学者であり、社会学者でもありました。ユダヤ教の教義、言い換えれば旧約聖書の教えに精通しているので、そのような視点から主なる神と私たち人間の関係を考察しています。私自身、主日礼拝では、主なる神からの語りかけを真剣に聴きそれに応答しようと努めていますが、次の日である月曜日からはそのことがおろそかになってしまっているのではないか、主なる神が常に語りかけてくださっている言葉を真剣に聞く受信機をONにしているだろうか、むしろ強靭な甲冑を心にまとい主なる神に背を向けてしまっているのではないか、と問われる思いがしました。

 そのような思いで、本日の聖書箇所を読み進んでいましたら、15章26,27節の御言葉がまさに、今の私に主イエスから送られて来ているメッセージとして迫ってきました。読んでみます。「26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」。ヨハネによる福音書の14章から17章は、主イエスが最後の晩餐において弟子たちにお語りになった告別説教とそれに続く祈りである、と言われています。しかし、その説教はその場にいた弟子たちだけにではなく、彼らの教えを聞いて主イエスを信じ、洗礼を受けて教会に連なって生きている者たちに対しても語られています。18節から21節を読みますと、「」という言葉が繰り返されています。ヨハネによる福音書では、「」というのは主イエスに敵対する存在として描かれています。教会に連なる信仰者は、この世ではなく主イエスに属する者となっているがゆえに、世から憎まれ様々な仕方で迫害を受けるというのです。そのような弟子たちのために、さらには後の世の私たちのために、主イエスは語って下さっているのです。ヨハネによる福音書の3章16節は聖餐式の時にいつもお読みする箇所ですが、ここにも主なる神と主イエスと世の関わりについて示されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されています。そのような愛をもたらした主イエスは、世に憎まれ十字架につけられて殺されました。しかし主イエスを信じる者は、父なる神が主イエスを復活させ、永遠の命を与えて下さったことを知っている、つまり神の愛が、人々の憎しみに満ちた思いとその背後にある神に背き逆らう罪の全てに最終的に勝利して下さっていることを知らされているというのです。だから、もしも、主イエスを信じることによって世から迫害を受けることになった時には、主イエスが語られた御言葉を思い出しなさい、そして忍耐して信仰を守り抜きなさい、と励まされているのです。

先ほども申し上げましたが、ヨハネによる福音書の14章から17章は主イエスの「告別説教」と呼ばれる個所です。そこではまず、14章の1節で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」という主イエスの励ましの言葉が語られています。そして、15章の最初には、主イエスというまことのぶどうの木から離れずにつながっていなさい、と勧められています。そのうえで、15章の16節の御言葉へと流れが続きます。おそらく、皆さんの中にもこの御言葉が私の愛唱聖句であるという方もおられるのではないかと思いますが、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」とあります。この御言葉は、多くの伝道者を生み出しまた励まし続けています。そしてまた、この御言葉は主イエスを信じるすべての者たちを力づけ生かしてきました。そして、それらの御言葉の根底にある最も確かな約束が26節に語られているのです。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。ここには、父なる神のもとに行こうとしておられる主イエスが主なる神のもとから私たちのために弁護者を遣わそうとしておられること、その弁護者は真理の霊であることが語られています。同じことは既に14章26節に語られていました。そこには「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とありました。聖霊が降る時、すなわち「父のもとから出る真理の霊が来るとき」、弟子たちまた私たちは、主イエスのことが本当に分かるようになるという恵みの約束が記されています。私がヨハネによる福音書に惹かれるのは、私たちに常に聖霊による救いが様々な形で語られていることです。私たちはその恵みを、甲冑を脱ぎすて受信機をONにして、しっかりと受け止めてまいりましょう。

立川教会牧師  保科 けい子