◆立川教会の定例集会の案内
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【毎水曜日】
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3月第4週の礼拝説教
■日 時:2026年3月22日(日)10:30~11:30受難節第5主日
■説 教: 保科けい子牧師
■聖 書:新約:マルコによる福音書10章32~45節(新約P82~83)
■説教題:「 先頭に立って進んで行かれ 」
■讃美歌:303( 丘の上の 主の十字架 )313( 愛するイェス、何をなされて )
今日も朝のジュニア礼拝には、明治学院東村山の高校生と中学生が来ています。その中にこの3月に大学に合格した2人が出席していました。そして、礼拝後に花束をプレゼントしてくれたのです。私は涙が出てしまいました。私が立川教会に参りました2022年の夏休みに、学校の聖書科の紹介で礼拝に初めて出席した生徒さん達です。ジュニア礼拝はこの4年間出席者がいなくても休んでいないのですが、その中で、私と1対1で礼拝を行ったということが何回かあるのです。そのような生徒さんが自分の進路が決まったというので2人来てくれたのです。本当に感謝でした。
一方で、先週は悲しい出来事がありました。皆さんもニュースでご存知かと思うのですが、沖縄の辺野古湾で2隻の船が転覆し、同志社の女子高校生と、「不屈」という船の船長でもあった日本キリスト教団佐敷教会の牧師が亡くなられました。その牧師と直接の面識はないのですが、仙台の教会におりました時に、あるご夫妻がその牧師を非常に尊敬しておられたことを思い出しました。ご夫人はその佐敷教会まで出かけて行って受洗なさったほどでした。今まで一生懸命に沖縄で頑張ってこられた牧師が、なぜこういう仕方で召されるのか、これから学校やご遺族が誹謗中傷に巻き込まれるのではないかという思いがあって、一週間、重苦しい日々を過ごしました。スマホでBGMとして流していたバッハの「マタイ受難曲」が本当に慰めになりました。
ところで、本日の聖書箇所を取り上げて、ある方が「今日の聖書個所もまた、典型的にマルコらしい描き方がされている」と語り出しています。その理由として、本日の箇所が、主イエスによる死と復活の予告の三度目として記されていることを挙げています。そして、マルティン・ケーラーという神学者が、マルコによる福音書を「長い序文付きの受難物語」とその特徴を指摘していると説明しています。、4つの福音書を比べると、マタイ、ルカ、ヨハネはいずれも20章を超えています。けれども、マルコは全体で16章という短い福音書であるのに、その半分の8章31節の段階で主イエスが一度目の受難予告をなさっています。その時の弟子たちの反応については、弟子のペトロが主イエスを「わきへお連れして、いさめ始めた」と記されています。砕いていうならば、人のいないところに連れ出して、「さっきのは何ですか。ああいうことを言われては困ります」と主イエスに注意したということです。それに対して、主イエスは「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と非常に厳しいことを言われたと記されています。二度目の受難予告9章31節の後では、32節に「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」と記されています。そして、三度目が本日の聖書箇所になります。受難予告に先立って次のように記されています。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」いずれにせよ、主イエスがなさった受難予告に対して、ペトロをはじめとする弟子たちは驚いて否定的に受け止め、恐怖を呼び覚まされたことが分かります。
さて、本日の聖書箇所10章32節を丁寧に診てまいりたいと思います。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。」と書き出されています。マルコによる福音書の結末まである程度知っている私たちに、この短い描写から伝わってくるのは、エルサレムで待ち受ける十字架を目指して、少しもぶれることなく足早に力強く歩いて行かれる主イエスの姿ではないでしょうか。そこには、マルコによる福音書の著者が、主イエスという救い主がどのような出来事によって栄光を受けられたのかということを一瞬でも早く人々に伝えておきたいと願い、それゆえ主イエスの誕生などは記さず、主イエスの語られた御言葉やなされた御業のすべてが十字架の受難へと収斂するように語らなければならない、という必死の思いを込めているように思うのです。
ところで、この旅は10章1節から始まりました。1節には「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とあります。「そこ」とは、これまで主イエスが伝道してこられたガリラヤ地方です。ガリラヤ地方を去って、ヨルダン川の東側を経由して、南のユダヤ地方へと向かわれたのです。目的地はエルサレムです。エルサレム神殿があり、ユダヤ人たちの信仰の中心地であるエルサレムへと主イエスはいよいよ上って行こうとしておられるのです。その旅において、主イエスは先頭に立って進んで行かれたのです。32節では、「それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と続いています。先頭に立ってエルサレムへと向かう主イエスを見て、弟子たちや従う者たちは何故驚き恐れたのでしょうか。主イエスが「先頭に立って進んで行」こうとしておられるエルサレムで、恐しいことが起ろうとしていることを、これまでの主イエスの二度の受難予告から多少なりとも察知したのかもしれません。そのことを、主イエスご自身が詳細に三度目にお語りになったのが33節から34節です。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」。
そのような主イエスの血を吐くような思いで語られた受難予告の直後に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスのもとにやって来ます。彼らは「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願ったのです。主イエスがエルサレムに行かれるのは栄光をお受けになるためである、と彼らは考えているのです。しかし主イエスはたった今、これから行くエルサレムで殺されることを予告なさったばかりです。どうしてそれが「栄光をお受けになる」こととつながるのでしょうか。ここに、主イエスがこれから受けようとしておられる苦しみと死とを弟子たちがどのように受けとめていたかが示されています。弟子たちは、主イエスが先頭に立ってエルサレムに上って行かれるのに驚き、いよいよその時が迫っていると恐れました。けれども、その出来事を通して主イエスが栄光をお受けになる時が来た、という期待をも抱いていたのです。だからこそ、ヤコブとヨハネはあのようなお願いをしたのです。
彼らが願ったのは、主イエスが勝利して栄光をお受けになり全世界を支配なさる時に、自分たちを右と左に座らせてください、ということでした。つまり主イエスが王座に着かれる時に、自分たちを一番の側近として取り立て、右大臣、左大臣の地位を与えて下さいということです。彼らはそこで、他の弟子たちとの間の序列を考えています。主イエスのすぐ右と左の座を得たい、それは他の弟子たちよりも高い地位、より栄光ある立場を得たいということです。それゆえに、彼らがこのようなことを願ったことを知った他の弟子たちは、41節にあるように、彼らのことで腹を立てたのです。彼らが自分たちを差し置いて抜け駆けをして一番高い地位を得ようとしたことに怒ったのです。それは彼らの中にも同じような願いがあったということではないでしょうか。彼ら弟子たちが今、エルサレムへと進んで行く主イエスに従っているのは、この先に待ち構えている出来事を経て主イエスが栄光をお受けになる、その時自分たちも、その栄光に与ることができると考えているからなのです。先週読んだ28節でペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言ったのも同じような思いからです。いろいろなものを捨てて主イエスの弟子となり従って来た、だからこそ、そのことには報いがあるはずだ、という思いです。最初に弟子として召されたヤコブとヨハネは、栄光を受ける主イエスの右と左の座という報いを望んだのです。
このヤコブとヨハネに代表される弟子たちの思いは、私たちが信仰をもって生きようとする時に共通して抱く思いなのではないでしょうか。それは、要するに救い主イエス・キリストの勝利と栄光に与かりたい、という思いです。私たちが主イエス・キリストを信じて従っていくことの根本にある動機はこれなのではないでしょうか。私たちが信仰を持って生きようと決心する時に必ず思っているのは、自分の人生を、日々の生活を、信仰によってより充実したものとしたい、あるいは平安と慰めを得て、前向きな思いで生きたい、ということでしょう。つまり私たちは誰でも皆、主イエスの勝利と栄光にあずかりたいと願って信仰者になるのではないでしょうか。そのようなヤコブとヨハネに、主イエスは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われました。彼らは「できます」と答えました。主イエスの飲む杯を飲み、主イエスが受ける洗礼を受けるというのが何を意味しているのか、彼らにはまだはっきりと分かってはいなかったでしょうが、主イエスと共に苦しみを受け、それを忍耐して従い通すことだということは分かっていたでしょう。この二人は、主イエスが栄光をお受けになることを信じて、その栄光に与るために、苦しみをも耐え忍んで従って行こうとしている真面目な信仰者なのです。けれども、彼らの願っていること自体が間違っていることは、他の十人の弟子たちが腹を立てたことによって示されています。それは結局他の弟子たちよりも偉くなろう、上に立とうとする思いなのです。そして他の弟子たちが腹を立てたということは、他の弟子たちも彼らと同じ思いであったことを示しています。そこで、主イエスがお命じになったのは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」ということでした。これは、皆に仕える者となりすべての人の僕となる人こそが、一番高い地位に就くことができる、ということではありません。むしろそのような思いを捨てて、仕える者、僕となりなさいと語っておられるのです。
そして、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」とお語りになりました。これもある意味では受難予告です。ここからよく、私たちは主イエス・キリストの十字架によって贖われたものである、という言い方をします。贖われるというのは言葉が難しいですけれども、ここで言えば身の代金を払っていただいて買い取られたということになります。本来ならば、僕として過ごさなければならないのに身の代金を払っていただいて、ある意味自由なものとして生かされるようになった、ということをここでは語っていると思います。この御言葉こそが、主イエスがお受けになる十字架の苦しみの意味を表しているのです。その十字架へ向かって進んで行かれる主イエスのお姿を私たちも思い描き、静かに従っていく受難節を過ごしてまいりましょう。
お祈りをします。
主なる神様、私たちは今、受難節を過ごしています。主イエス・キリストが私たち一人ひとりを贖うために十字架におかかりになったことを深く覚える時を過ごしています。最も低いところで私たちに主イエスがお仕えくださったように、私たちも同じように仕える者になることができるように、一人ひとりに力をお与えください。この祈りを主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン
立川教会牧師 保科 けい子
