お知らせ

変異したコロナウイルスの感染が猛威を振るい始めています。
ワクチンの接種が速やかに行き渡ることを祈ります。
立川教会の集会案内ですが、これから第4主日のジュニア礼拝がお休みとなります。
又、来週に予定されていた「青年の夕べ」は、緊急事態宣言が解除された後の6月6日(日)に延期されますので、お間違いのないようにお願いいたします。

・教会学校:第1~第3日曜日8:30-9:00 第4、第5日曜日はありません。
※幼児・小学生対象

・ジュニア礼拝:第1~第3日曜日9:15-9:45 第4、第5日曜日はありません。
※中高生対象

・主日礼拝:毎日曜日10:30-11:30

・夕礼拝:第1~第3日曜日。但し、第3日曜日は「青年の夕べ」を兼ねるため、時間帯が変わります。第4、第5日曜日の夕礼拝はありません。
 第1・第2日曜日19:00-20:00
 第3日曜日17:00-18:45

・聖書研究・祈祷会:毎水曜日10:00-11:00

夜ではなく、昼間に変わりました。聖書研究はローマの信徒への手紙です。

◆2021年5月第3週の礼拝予告
■日時:2021年5月16日(日)10:30-11:30復活節第7主日
■場所:立川教会
■説教:飯島信牧師
■説教題:「神の恵みにより義とされる。」
■交読詩編93:1-5(p107)
■聖書:新約ローマの信徒への手紙3:21-26(新約p277)
■讃美歌:120「主はわがかいぬし」・461「みめぐみゆたけき」

◆今週の聖書日課(5/10-5/15)【日本基督教団「日毎の糧」(2021)から転載】

※お詫び。
先週の聖書日課に記した旧約の列王記は、列王記上ではなく、列王記下でした。誤っての記載をお詫びいたします

 5/10(月)【大飢饉と包囲の中で】列王記下6:24-7:2詩編23編
マルコによる福音書7:1-13

11(火)【アラムの王に関する預言】列王記下7:3-20詩編24編
マルコによる福音書7:14-23

12(水)【イエフ、イスラエルの王に】列王記下9:1-13詩編25編
マルコによる福音書7:24-30

13(木)【主の栄光の姿】エゼキエル書1:4-5、26-28詩編97編
マルコによる福音書16:14-20

14(金)【謀反を起したイエフ】列王記下9:14-37詩編26編
マルコによる福音書7:31-37

15(土)【イエフの策略】列王記下10:18-28詩編27編
マルコによる福音書8:1-10

主日礼拝ライブ(同時中継)礼拝の視聴方法

https://www.facebook.com/tachikawachurch/live

にアクセスします。
(お気に入り登録をしておくと、その都度URLを入力しなくも済みます。)

※Facebookユーザーでなくても、礼拝の視聴は可能です。
※Facebookユーザーでない場合、「ログイン」または「新しいアカウントを作成」の画面表示が出ますが、ログインや新しいアカウントを作成しなくても視聴することができますので、無視して問題ありません。
※お手持ちのデバイス(パソコン・スマホ・タブレット等)で視聴する場合、音声が小さく聞こえにくい場合があります。その際は、イヤホンを使用すると音声が聞こえやすくなる場合がありますので、ご利用ください。

◆日本基督教団立川教会創立1951年2月11日主任担任教師飯島信牧師
◆〒190-0022東京都立川市錦町3丁目11番9号電話/FAX042-523-2023
◆郵便振替口座名:日本基督教団立川教会口座番号:00110-1-92251
◆郵貯銀行預金種目:当座預金店名:0一九口座番号:0092251
◆教会墓地八王子市南淺川町3079第二高尾霊園(京王線高尾山口駅下車徒歩20分)

◆2021年5月第2週の説教
■日時:2021年5月9日(日)
■場所:立川教会
■説教題:「神は、人を分け隔てなさらない。」
■聖書:新約ロ-マの信徒への手紙2:6-11(p275)
■讃美歌:13「みつかいとともに」・402「いともとうとき」1番

お早うございます。

変異したコロナ・ウイルスの感染拡大は止まらず、来週の11日(火)に解除予定であった緊急事態宣言が今月末まで延長されることになりました。その結果、来週予定されていた2021年度定期総会は、書面での開催と致します。教会員の皆様には、今週議案書を送付する際に改めてお知らせ致します。又、通常の礼拝の再開も、来週ではなく、解除後の6月の第一主日の6日を予定しています。祈りつつ、忍耐をもってその時を待ちたいと思います。又、皆様、ワクチンの接種など、くれぐれも健康には留意されることをお願い致します。

先週からロマ書の講解説教に入りました。

今日与えられた御言葉は、2章6節から11節ですが、大切な内容が記されている1節から見て行きたいと思います。

1:だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

ローマは、当時、世界を支配していたローマ帝国の中心都市でした。パウロは、そのローマにいる、つまり世界の中心都市で生活をしている、未だ一度も会ったことのない人々に対し、大胆に福音を語り始めます。それは、人間の罪の指摘から始まります。

私たちにとって、罪の根源とは何かです。

それは”傲慢”です。

自分が正しいと思い、他は間違っていると裁く心です。

この心は、自分の内側から、繰り返し繰り返し噴き出して来ます。

どんなに否定しても、すぐに頭をもたげて来ます。

私たちは、何かの事柄に失敗した時、その原因を自分に見出すより、すぐに他の人のせいにすることはないでしょうか。

何かの問題で自分が批判された時、その批判を受け入れるのではなく、その人を心の内で否定することはないでしょうか。

人の成功を快く思わず、むしろ失敗にホッとするような心はないでしょうか?自分がライバルと思っている相手ならなおのことです。

パウロは、このような心を問題にします。

人を裁くとは、自分は正しく、他は間違っているとすることであり、自分にとって都合の良いことをのみ追い求め、他の人の躓きを喜ぶことです。その心こそが”傲慢”です。そして、裁く者は、その裁きによって罪に定められると言うのです。

2節3節です。

2:神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。

3:このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。

このようなこととは、神様の前における不正や不義を指しています。

具体的には、1章29節から31節にかけて示されます。

即ち、あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲であることです。

そして、これらの問題の根底に横たわっているのは、何よりも神様を恐れないことです。

パウロは、神様を恐れず、これらの行いをしている者を裁くその者に対して、実は、あなたも又同じことをしているのだと指摘します。

さらに、裁いている者たちは、4節5節です。

4:あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛

と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

5:あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

ここで、私たちは立ち止まって考えなければなりません。

5節の「あなたは、かたくなで心を改めようとせず」とはどのようなことかと。パウロは私たちの何を問題にしているのかをです。

パウロが問題にしていること、それは、私たちの心の奥底に潜む、他の人の問題点を見つけ出すのに熱心であり、自分の問題点からは目を背ける姿です。このような私たちは、必ず、神様によって正しく裁かれる時が来ることを告げます。

その上で、6節から8節です。

6:神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

7:すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、

8:反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。

神様は、生きて働かれるお方です。

私たちそれぞれの歩みに対して、傍観者でいるのではなく、しっかりと関わられると言うのです。

どのような妨げが現れようとも、それに屈することなく、耐えて善を行う者に対し、あるいは世における栄光と誉れではなく、神様からの不滅の栄光と誉れを求める者に対し、神様は、約束された永遠の命を与えて下さると言うのです。

その反対に、神様からの呼びかけに耳を塞ぎ、神様に背を向け、自分の欲するままに生きようとする者には、怒りと憤りが示されると言うのです。

そして、9節から11節です。

9:すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、

10:すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉と平和が与えられます。

11:神は人を分け隔てなさいません。

神様の前にあって、悪と善は明らかです。先にパウロが掲げた人間の罪と指摘されたことは悪であり、そうでないことは善を意味します。

善とは、不義や悪、むさぼりから離れ、善意に満ち、ねたみや殺意を心に抱かず、平和であり、正直であり、誠実さにあふれ、陰口や人をそしることをせず、神を愛し、人を敬い、謙虚であり、慎み深く、善いことを考え、親には孝を尽くし、知識に富み、慈愛に満ちていることです。

ユダヤ人は神様から選ばれた民を意味し、ギリシア人は、神様を知らない異邦人を意味します。しかし、神様の前にあっては、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと関わりなく、全ての悪を行う者を待ち受けるのは苦しみと悩みであり、善を行う者には栄光と誉れと平和が与えられると言うのです。神様は、人を分け隔てることはなさらず、全ての人に対してです。

12、13節。

12:律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。

13:律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。

律法の教えを聞き、それを知ること、又律法を学び、神様が律法によってどのような生活を私たちに求めておられるのかを知ることは大切です。しかし、それ以上に大切なことがあります。それは、律法が教えているように、神様が私たちに望まれていることを行うことで

す。何故なら、律法は、聞いたり学んだりすることではなく、その教えに従って生きることこそが、神様が私たちに求めておられることだからです。

そして、14節と15節にかけて、パウロの人間観とでも呼ぶべき、重要なことが語られます。即ち、

14:たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

15:こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

人は全て神様によって造られました。

その心には良心が植え付けられています。

どのような人であっても、いかなる出自を持ち、いかなる家庭環境のもとで育てられようとも、全ての人には良心が備わっています。つまり、良心とは、神様と向き合う心です。その心のままに生きる時、それは律法の命じるところを自然に行うことであり、神様が示された律法に従う生き方となります。それが、自分自身が律法であると言う意味です。

この時、即ち、人が神様と向き合って生きる時、その心には良心が植え付けられていることを証ししています。だからこそ、心の中で、互いに責めたり弁明したりする心の葛藤が起きるとパウロは言うのです。

そして16節です。

16:そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

律法を知る知らずにかかわらず、神様の御心に適う歩みを成し得たかどうか、終わりの日に、全ての人は裁きの前に立たされることをパウロは告げます。

このパウロの言葉を聞いて、私たちは少しだけですがホッとします。

キリスト者でなくても、良心に基づいて生きている人々を知っているからです。

その人々は、その行為によって、私たちと同様神様が報いて下さると言うのですから、大きな慰めとなります。

では、そのような良心を神様は全ての人に備えて下さっているのであれば、キリスト教の信仰を持たなくても良いのではないかと思うかも知れません。イエス様の十字架の意味は何かとの問いです。

確かに、パウロの言うように、私たち被造物として造られた者全てに、良心は備えられて

います。良心とは、神様と向き合う心です。

しかし、この良心と共に、私たちの心には、この良心を覆い隠し、時には押し潰すような強大な力があることも又事実です。神様の呼びかけに背を向け、自分の欲望の趣くままに生きようとする力です。そして、その力は限りなく強く、間違った喜び、虚栄と虚無の世界へと私たちを導きます。この良心を覆い隠し、押し潰す力、神様に向き合うのではなく、背を向けさせてしまう力、それがパウロが罪と呼ぶものです。そして、私たちは、誰一人としてこの罪から自由になることは出来ません。人間とは、神様に向かって造られた、良心を与えられた人間であると共に、罪に囚われた存在なのです。

だからこそ、その罪の故に神様と出会うことの出来ない私たちを、罪の縄目から解き放って下さったのがイエス様の十字架です。罪の重圧のもとで死に瀕している私たちに代わって、イエス様が私たちの罪を背負って下さいました。それが十字架であり、その十字架によって私たちは罪から解き放たれ、さらにイエス様の復活を信じる信仰によって、永遠の命に与ることが約束されたのです。それが、ローマの人々へパウロが伝える福音でした。

その福音を信じて、ここに呼び集められた群れが私たちです。

この地で、堅く立って動かされず、与えられた生涯を、神様に従う忠実な僕として全うして行こうではありませんか。そして、キリストの十字架を心の内に立て、それぞれの弱さを認め、受け入れ合い、祈りを一つとして、福音伝道の業に仕えたいと思います。

祈りましょう。

2021年5月10日(月)
立川教会牧師飯島 信